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第94回 自尊感情

2016年06月26日

自分にたいして持つ自信やプライドのことを心理学的に自尊感情と言います。そして自尊感情にも2種類があるといわれています。まず、問題1、2について答えみてください。

問題1 あなたは「いい人生」を歩んでいると思いますか?

「どちらかというとで」でいいので「はい」か「いいえ」で選んでください。

「はい」を選んだ人は、問題2に進んでください。

問題2 「はい」を選んだ理由はなぜですか?

もし問題1で「いいえ」を答えた人は自尊感情が低くなっているかもしれません。そして、自尊感情が低い人ほどうつ病になる可能性が高くなります。

問題2に進んだ人は、自尊感情は低くないですが「はい」を選んだ具体的な理由を答えた人は自尊感情の2種類のうち『条件付きの自尊感情』をもっている人になります。条件付きの自尊感情とは、「いい大学に受かったから自分はすごい人間なんだ」というように○○だから自分は素晴らしいと感じている人が当てはまります。この自尊感情しか持たない人は、どんな人でも成功続きではありませんので何かしらの失敗、例えば「就職活動が上手くいかなかった」などのことがあったときに自信を無くしてしまいやすく、うつ病になりやすくなります。さらに自尊感情が傷つくのを恐れて本当にしたいことをしなくなってしまうように守りに入ってしまう人もいます。

問題2で具体的な理由が答えられなかった人やなんとなくと答えた人は自尊感情のもう1種類の『真の自尊感情』を持っている人になります。真の自尊感情とは、○○だからというような条件に関係なく無条件で自分に価値を見出せる人となるので、多少の失敗があったとしても前向きに進むことができるのでストレスに強く、うつ病にもなりにくい人になります。

もし、真の自尊感情を持ちたいと思った場合は、失敗を恐れずにやりたいと思ったことをやってみることが重要になります。もちろん実際に行動してみて失敗することはあると思いますが、その時はやめておけば良かったと思うのではなくやりたいことをやったんだと自分を肯定してあげれば、自尊感情も強く、真の自尊感情になっていきます。また、ある心理実験でも「やってしまったことの後悔」よりも「やらなかった後悔」の方が、ずっと強く記憶に残るそうなので、とにかく行動することが大切なんだそうです。

福田

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第93回 「学芸員」の役割

2016年06月19日

図書館に「司書」がいるように、博物館や美術館には「学芸員」という専門的な職員がいます。

多くの人は「学芸員って何?」「どんな仕事をしているの?」と疑問に思うと思います。確かに「学芸員」という職業は知名度が低く、一般的にあまり知られていません。

では「学芸員」とは何なのか?「学芸員」とは簡単に言ってしまえば博物館や美術館の展示物を製作・展示し、保管・研究をしている人達の事です。よく、博物館や美術館で展示室の前に座っていたりしている人たちを目にすると思いますが、あの方たちは大抵学芸員補か事務員の方で、通常学芸員は表舞台には出て来ません。主に裏方の仕事になります。博物館や美術館にある展示物を表舞台に立つ「役者」と捉えるならば、学芸員はそれを支える、または舞台を作る「スタッフ」と言えます。博物館や美術館に展示されている展示物は、その建物のテーマに合わせて学芸員がセレクトした物ですし、特別展示となると、それは学芸員の研究の成果を発表する場にもなるのです。

特別展とは、期間限定で行われる展示会のことなのですが、これを企画するのも学芸員の仕事になります。先ほども述べたように、特別展は学芸員にとって研究の成果を発表する場でもあります。特別展を計画するのはおよそ一年前かららしいのですが、そのテーマを研究する学芸員が中心となって特別展の企画を進めていくのです。展示物のすぐ側にある長い説明文のフリップを作成しているのも学芸員です。常設展でも同じことが言えます。特に特別展では、学芸員が色々工夫を凝らして展示空間を作っているので、長くて見るのが億劫になってしまう説明文も、少し立ち止まって読んでみると、学芸員の思いが伝わってくるかもしれません。そもそも、説明文と展示物は二つでセットなので、学芸員は観覧客がどういうルートで回ってみるのかを想定して、説明文と展示物を配置しています。展示物だけではなく、説明文やその配置にも、学芸員のこだわりが垣間見えるというわけです。

 

博物館・美術館には必ず学芸員を置くということが法律で決まっています。ここが「司書」との大きな違いですが、どちらも資格が必要な職業なので、資格がとれる大学に行くか、独自に専門知識を学ぶ必要があります。また、学芸員には「博物館実習」があり、これも資格を取る上で必須事項となってきます。

ここまで学芸員の仕事について触れてきましたが、博物館や美術館が生涯学習の施設であるように、学芸員もまた生涯学習の教育者という立場を担っています。学芸員は博物館や美術館に来る学習者のサポートをしなくてはいけないのです。ただ展示会を開く、展示物を紹介するだけではなく、学習者に対してより詳しく展示物の解説をしたり、学習者が学ぶ場を提供することも教育者の役割となってきます。

学芸員は知名度こそ低いですが、博物館や美術館になくてはならない存在です。また、生涯学習という点においても重要になってきます。地域よっては博物館・美術館を生涯学習の場として活用することで、地域の活性化を計っている所もあります。教育の面においても、学芸員は重要な役割を背負っているのです。いかに生涯学習支援の活動に関わっていくか、学芸員という立場からできることを模索していかなくてはいけません。それには、やはり地域との繋がりが大切になってくるし、学芸員そのものの資質も問われてくるのではないかと思います。

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第92回 PHP研修に「青春とは心の若さである」とあった

2016年06月10日

そこには詳しく「まだ年が若いのに、目に光なく、何とはなしに生きているような人がいる。他方、年老いてなお意気盛んで、はつらつと活動を続けている人もいる。青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ勇気にみちて日に新たな活動をつづけるかぎり、青春は永遠にその人のものである」とある。

さてこれをもう一度年齢別で考え直してみよう。
10代は学生である。ほぼ知育か体育で明け暮れる。
20代は社会に飛び出し職場で作業を覚えながら、人生目標を作る。
30代は所帯を持ち子を産み育てる楽しさ、大変さを味わう。
40代は社会人として一人前となり、後輩を教える責任と、子供を中学・高校へと行かせながら自分の将来よりも子供の将来に力が入ってくる。
50代は社会人として覚えることがずいぶんなくなり、また一部に役職から外れ、後輩も与えられなくなり、社会的責任も薄くなってくる。また子供も最終学歴を終え社会人として旅たち、家庭での子育てという役割も薄くなった来る。
60代で定年を迎え、いよいよ社会から必要とされなくなり、また子供たちも独立し、自らの心と体の行き場が薄れてくる。
このときに「青春とは心の若さである」という言葉を思い起こし、はたして年老いてなお意気盛んで、はつらつと活動を続ける目標がその時にあるだろうか?このとき私は青春ですと答えられる人ほど人間として素晴らしい人はいないだろう。それは金銭的にまた健康的にも青春だといえるからである。お金がなければはつらつした生活は送れない。健康でなくては気力もわいてこない。だから60代の青春はほとんどの人が味わえないものだと思う。それだからこそ挑戦する意義があるのかもしれない。
庭いじり?庭のない人もいる。旅行?毎月出かけるお金などない。孫の世話。都合のいいときなどそんなにないし、世話というものはあんがい大変である。またそれはあくまで親代わりで青春といえる行動のものではない。絵描き・物書きはどうか?それも趣味としていいだろう。ということは趣味を青春としろということか?趣味が燃え上がる物足りうるのだろうか?「青春とは人様の役に立つ状態では」と私は考えるがいかがなものであろうか?と考えれば日々のつらいこと そうストレスや肉体的悲鳴もそれ自身が青春ではないだろうか?苦しみもがいている反面それは社会として何かしらまだ役に立っている、社会の一員でいられるという実感なのである。社会の一員という枠を取られたら、はつらつなどなくなる。あるのは空虚感・虚脱感・孤独感である。そして死への旅たちか?生きる目的が死へ向かって歩くことになっていく。
だから社会人でいられることを喜びだと考えよう。「今日会社で叱られた」「失敗した」「ストレスたまった」なんて小さいことはなんとか自分で解消してみよう。それこそが青春なのである。生きているあかしなのである。

 

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第91回 人間は他人のことは気になる

2016年06月03日

この間ある人との会話の中で「内の部下は私がやれば1時間で終わることを2時間かかってやっている。しかも質が私よりも落ちる。仕事の勘所というか手を入れるところと、手を抜いてもいいところがわからないのだよ」と言っていた。
次に出てきたのが「最近仕事が少なくてお客様になってもらえそうなところに出向いて話をしている。特別ご注文を取りに行っているわけでは無いが、もしもの時の手を打っているよ」ということだった。
そこで聞いてみた「そのあてになりそうなお客様で、ご注文をもらえたところはありますか」と。すると「もらえたはもらえたがそのお客様も代替わりが始まっていて、以前はよく買ってもらえたのだが若社長になったらあまり用事がないといわれ、もらえたご注文も微々たるもんだった」と返答だった。
それから次に出てきたのが「募集しているのだがなかなか人が来てくれない。また、たまたま来てくれても続かないんだよ」と。考えていることがいろいろありお仕事が大変な様子であった。
自分でやれば仕事は早く正確である。部下がやれば遅くて質が落ちる。これは当たり前のことである。そこで聞いてみた。仮に部下が「言われたことができたらあなたと同じ給料くれますかと聞いてきたら出せますか」と。すると「それは出せんわ」たった。効率を求めるためレベルを上げてほしいと考えるのはわかるが、レベルを求めれば対価も求められるという理屈がわからないのである。
はたまた「暇ならとにかく営業をかけれるだけかけてご注文をめいいっぱい取ってみたらと」聞いてみると「もしやりこなせなくてお客様に迷惑がかかりせっかくのお客様を失うのも嫌だ」と言っていた。
募集にしても「募集するのは何のためですか。人が入ると人件費がかかり、ますます仕事を獲得しなければならないが、教える仕組みと支払う給料原資はあるのですか」と聞くと、それもうやむやなのである。
そこでもう一つ聞いてみた「いろいろと考えているようですが本当の今の課題は何ですか」と。すると結論「わからない」だった。
人間どうしても問題を他に見つけようとする。しかし本当の問題は自分にあるような気がする。自分の目標が定まっていない。仮に定まっていても実行に移すことができない。実行に移しても自分が悪いわけでなく他人のせいにして、結局うやむやになって終わる。
これは自分にも言えることだがやはりまず自らを振り返ることが先であろう。自分に部下があれば当然面倒見なくてはいけない。しかしその前に自分は大丈夫かを常に問いかけていないと。そうでないと自分はできなくていいからお前はできろと言いかけたり、自分と同じことができるようになれば自分の立場はそのうち必要なくなるということになっていく。当たり前のことである。

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