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第100回 運で生きていないか?

2016年07月26日

「運」と言うものは「感」から発生すると私は思う。つまりある物事の判断に出くわした。右に行くか、はたまた左に行くか。そこで「感」に頼って右にした。結論まことにハッピーになった。なぜならそこには先輩が既に成功を収めていて、そのやり方を学ぶことによって自分も成功をつかんだからだ。これはまさに「感」から来た「運」の良さだ。 「運」と言うものは引き寄せられることもある。そこで自分の実力がなくても自然にそうなってしまったことにより実力以上のことが起こり得ることもある。そこで身の程を知ればよいのだがここで「感」違いを起こし、「俺はできるんだ」と思いこんでいろいろやってしまう。するとやはり実力がなかったので見事に裏にはまる。まだその人独りの場合は被害がないが、そこに仲間がいたらえらいことになる。仲間も引き寄せられてしまうのだ。 私などいい例だ。私は自分を「感だけで生きてきた男」と家族に常々話している。実力も無く、のこのこと54年間も、よくぞここまで生きてこられたと思いますよ。「感」に引き寄せられて「運」があまりにもよかったのであろう。 運を時代の波に乗せて生きる為には「感」をみがけ!「感」を磨くにはやはり勉強しかない。「現代の起こっている情報を集める」「なぜそうなりつつあるのか調べる」「過去の歴史で参考になる物はないか探す」「先輩の過去の結果を自分に当てはめた時、自分は明日からどう考え方を変化しなければならないのか決める」「明日から全く違う自分を生きる」→結論を冷静に見る 結論が良ければ「運」が良かったのだ。それは「感」が良かったのだ。  この「運」と「感」の関係に隠れているものは「願望」と「努力」である。人間まず「願望」があるかないかだ。「願望」=「欲求」が髙い者ほど「努力」=「行動力」を持たなければならない。「願望」は「信念」に後付けされ「結果」として現れる。現れるまで失敗してもあきらめない。「誰かがやれたことだ、俺にもできる」とはなから決めつけてやってしまうことだ。そしてやってしまったら当たり前の顔して次の願望に向かうことだ。兎に角やった者のみが何もかも勝ち取ることができる。

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第99回 セルフ・ハンディキャッピング

2016年07月24日

セルフ・ハンディキャッピングとは自分にとって不利なことをわざわざ行ったり行動したりすることを指します。例えとしては「私、バカだから」と言う人などがこれに当たります。

セルフ・ハンディギャップについて心理学者のバーグラスがある実験を行いました。実験対象者に難しい課題を解いてもらうことを伝えました。その後、問題を解く前にAとBのどちらかの薬を飲んでもらいました。AとBの薬は、Aが「一時的に能力を高くする薬」で、Bは「一時的に能力を低くする薬」だと実験対象者に伝えました。もちろんAとBの薬はただの水なので能力を上げ下げすることはできません。この実験で課題を解くのに自信がない人ほどBの能力を低くする薬を選ぶことが多かったそうです。

Bの薬を選ぶ人が多かった理由は、失敗しても薬のせいにできるからです。つまりセルフ・ハンディキャッピングとはダメだったときの言い訳を作ることのことを指します。さらにBの薬を飲む人が多かった理由としてはどちらにしても得だからというのもあります。今回の実験でいえば、課題が解けなかった場合では、「薬のせいで能力が下がったからできなかったんだ」という言い訳ができます。課題が解けた場合では、「薬のせいで能力が下がっているのに課題が解けたよ。自分ってすごいんだ」というように成功の価値を高めることができるので、自分を低くすることで成功しても失敗しても得な結果になるようにできるからです。

しかし、多くの調査でセルフ・ハンディキャッピングをする人はしていない人と比較して成功の確率が下がってしまったという報告があります。これは「どうせ言い訳ができるから負けても大丈夫」という思いから必死さがなくなってしまったのが原因だと考えられています。つまり、セルフ・ハンディキャッピングをするということはどのような結果になっても得をするのではなく、成功する確率を下げてしまっているだけということになります。もし自分が本当に成功したいと思うなら、大切なことは「過去に受けた仕打ちのせいで」「あの人のせいで私はダメなんだ」「自分は頭がよくないし」などと言うような自分自身を下げる評価や自分の過去や生活環境を言い訳にすることで逃げ道を作ってしまい、気持ちまでどんどん逃げ出そうとするのを防ぐために言い訳をするのを少しだけでもやめてみてどんなことでも構わないので全力で取り組んでみることが大切になります。

福田

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第98回 子供の教育と生涯学習

2016年07月17日

生涯学習の基盤となるのは、小・中学校における義務教育です。また、学校での学習の他に家庭学習も大事な基盤と言えます。

つまり、生涯学習は子供たちの学習にも関与しているということです。ではどのような形で学習の手伝いをしているのでしょうか?

図書館や博物館といった施設は、大人の見識を広げるにも良い施設ですが、小学校や中学校と連携して子供たちの学習の手伝いをしています。

学年単位で博物館や美術館を授業の一環として見に行ったり、校内以外に図書館があれば、休日や夏休みなどに調べ物ができます。それ以外に、子供向けのイベントを期間限定でしたりと、机に座って行う学習だけでなく、実際に体験して学ぶというスタイルもあります。

最近は小学生のうちからスマートフォンを持つという事もあり、読書をする子供は段々減少しています。現在は図書館も進化しており、本を読む場所だけでなく、CDやDVDといった資料も閲覧や貸し出しができたりします。また、美術館や博物館も”体験型アート”として実際に触れたりできる物が増えてきています。親子で体験できるものもあるので、一度行ってみると親子ともに何か感じるものがあるかもしれません。

また、学校教育以外に家庭学習の面でも生涯学習施設は役に立っているのです。地域や学校と連携して、子供の生活習慣や育児・子育てについて地域の施設で学べる環境を作ることも、生涯学習の役割の中に入ってきます。その他に、市の施設で体験学習をしたり、申し込めば野外キャンプや自然と触れ合えることのできる体験もできます。確かに勉強することも大切ですが、子供の感性を育てる面としても、このような活動を地域ぐるみですることには大きな意味があると思います。

生涯学習は成人した人たちが学習するという事だけでなく、子供たちの学習にも影響を及ぼしています。それは、算数や国語といった成績が評価されるものではなくて、外に出て学ぶことを意味しています。そして子供たちが自ら学び、行動していくには、大人の助けが必要となってきます。この時、生涯学習に意欲的に取り組んでいる地域は、地域の人々と市の結びつきが強いので、より学習の場が広がるのです。学習の場が広がれば、色々な体験ができます。現代はスマートフォンがあれば家でもSNSで他人とつながることができ、ゲームをしていれば家の中だけで済んでしまう時代です。だからこそ、このような地域の繋がりが大切になってくるのだと思います。そこには、子供たちだけでなく、大人も積極的に関わっていくことが重要なのです。

岡田

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第97回 自分の話の内容はいつの話題か?

2016年07月07日

自分自身を冷静に見つめてみよう。自分が会話している題材内容は時間軸で言うといつの話をしているか?たとえばサザエさんに出てくる井戸端会議の内容は「過去」の話題である。TVの品評も「過去」のことである

子供の成績も「過去」である。今度〇〇でテートしようは「未来」である。

今日の予定は、も「未来」「盆明けからあなたにはこういう仕事をお願いします。これも「未来」。私は1年後に△△という目標を達成します。「未来」

さて?あなたの毎日の頭脳は時間軸で言うとどちらのことを主に考えていますか?よくある話。たとえば定年離脱した年齢層と会話するとほとんど「過去はこうだった、あの時はああだった」ということばかり。「これからこうなる。それは具体的にこう考えるからだ」とか、「今こういう新しいことに取り組んでいるがあなたはどう思うか?」という将来像について語る人は少ない。いやもっと言うと「最近体の具合が悪くて……、この間となりの人がなくなったよ……、同窓会に行ったら6人ほどかけていたよ」と言うことに頭が働いていてと言うかその程度しか話す内容がなくて、頭脳自体が劣化していっているのではないでしょうか?

いや社会にリタイヤした人々ならそれでも良い。徒然草の世界でいいのである。しかし現役者、しかも明日の日本国を背負って立つ若者はこれではいけない。常に時間軸は「未来」でなければ!

藤榮は会議を重要視しないがそれは過去を区切って振り返ってみてもしょせん「過去」だからである。どうせなら起こったその日に、と言うよりも目標とのずれを反省しずれを修正するコントロールを目指すべきである。

受動的であるのが会議形式、片や目標をかかげ、それに到達するために自己啓発し、学んだ知識を実践し、失敗を自ら反省し、目標に近づけていく能動的生き方を行うべきである。

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第96回 人口知能とは?

2016年07月07日

昨日の雑誌に自動車の自動運転が2016年から始まりそうだと出ていた。一番早いのがスバルその次が日産だそうで、まずは高速道路から始まるそうだ。360度車にカメラが設置され、起こりうるべき事態をすべてコンピューターに入力しておき、それぞれの対処法を自動で取るというシステムである。囲碁将棋の対戦と同じである。

しかし私は思う。人工頭脳はあらゆる角度で経験された知識をインプットされ、それぞれ起きたことに素早く対応してくれるが、未来時間軸に対して目標を持ったり、また火事場のバカ力も出ないし、組織の力も要求できない。組織の力とは集団心理、つまり宗教みたいな力=ある意味暴走である力。しかし、いかに人工知能に打ち勝つか?皆さん考えたことありますか?私は頭が悪いからそういうくだらないことばかり考えて生きている。

相手が機械だろうが負けたくない。と言うより違うレベルで生きていきたい。その生きる考えの中で、新しい未来を見つけ出していきたい。

人工知能など所詮人間の経験の集大である。予期せぬことを行っていく者が知識人であり、クリエイティブな世界なのである。感性はまだ人間の方が上でありたい。

だが時代は人間知能から人工知能に移り変わる。我々の身近な生活がそうなりつつあるならば、2020年ごろを目指して、我々の職場も人工知能を取り入れた職場にすべきである。え?なにを?それを考えるのが人間様でしょ!そして人工知能に動かされるも人間様なのです!

 あなたならどう考える?どの仕事を人工知能に判断させる?

 それともあなたは人工知能に使われる人間様になるのか?

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第95回 昭和と平成の技術力違い

2016年07月03日

ひと昔までは製造業と言えば職人というのが当てはまった。しかし今では製造業で働くなり手も減少し、多くの会社は派遣社員の活用や機械化設備で生産する習わしになっている。
我々藤榮もここ十年でずいぶん機械化されてきたが、やはりお客様の特注品は機械化できないところにある。機械化できないというものは製品の寸法出しと、その寸法を細かく正確に加工するという技術力だ。これは職人技とは昔は言わなかったが、今では職人の部類に入ってしまうぐらい細かい仕事ができる層が少なくなりつつある。事務にしても昔そろばんをはじいていた時代から電卓に代わり今ではパッケージソフトが難なく働いてくれる。そこでの人間の仕事はデーター入力と紙処理だけである。工場もほとんどの物は機械が加工してくれる。のこの切れ味、穴の深さ、いや機械の具合、加工の具合を音で判断するというレベルの者は皆無になってしまった。
ではそれだけの者になるまで育てればいいじゃないかということになるが、これがまたむつかしい問題で、そもそもその技術を身に付けたいというものが現れてこない。また仮に社員が入ってきても、元々学校でのこ・カンナ・ノミと言った道具の扱い方を習ってきていないことや、製造には算数がついて回るという認識や、出来上がった商品に対する思い入れ、センスなどを磨くという意識がなかなかない。そして職人を育て上げるのには最低でも10年はかかってしまうという時間的問題もある。今時10年も同じ会社に居続ける者も珍しいし、また己の生活努力を先を夢見て生きるというものも少なくなっている。それだけ世の中、時間というものの観念が薄くなりつつあり、また、将来設計という考え方も薄れつつある。
その今の時代に製造業が生き残っていくには、根気を詰めて職人を育て上げるという考え方はもはや昭和の時代のものと言わざるを得ないのかもしれない。平成の者には「とにかく苦労せず、楽に、人並みで良いから生活できれば先のことまでは考えない方式」で行かなければ立ち行かなくなってしまったようだ。
この平成の時代に合わせる生産はやはり事務と同じようにパッケージ活用でなければなせないようだ。つまり加工されたパーツを仕入れ、それを組み立てることに専念する、という考え方だ。そうすれば今苦労して作業している加工という作業がずいぶんなくなる。作業がなくなれば教育もなくなり、人を採用するというわずらいも少なくなってくる。少なくなって仕事自体の範囲も狭くなっていく。利点である。しかし逆の欠点はその苦労が製造する利益の素なのである。苦労するから儲けさせてもらえる。楽すれば儲ける元が会社からなくなってしまう。いやそこには儲けるのは経営者と一部のリーダー層だけで、それ以外の者はただ単純作業を来る日も来る日も行って日々を生活するということになっていくであろう。というかそれが今の日本の実情であり、世界の常識なのであろう。と思うと昭和30年代生まれの者に通用してきた職人気質も、昭和40年代以降の生まれの者に要求する方が考え方、生き方を改めなければならないのであろうと、いまさらながらに身に染みてきた今である。
時は流れる。21世紀にあった生産方式に切り替える時なのかもしれない。そこに昭和の時代に有った「同じ釜の飯」「運命共同体」という感覚はなくなり、ただ殺伐とした人間関係いやそれすらも薄れ、時間になったから出勤、そして時間が来たから帰るという生活をすることを良しとし、達成感・失敗したことに対しての悔しさ、家に帰ってからの反省というものはものは、もはや要求することをしないようにする時代がやってきているのかもしれない。
いずれにしても平成の時代は昭和の者ではもはやコントロールできないところまで進化している。つまり昭和の者はもう平成の時代についていけなくなってしまったのであろう。
時代は戦後生まれの初代から昭和生まれの2代目を通り越し、もはや平成生まれの3代目の時代に突入しているのである。

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