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2017年09月19日
2017年09月18日
日本の民俗学者に柳田国男という人物がいます。
柳田国男は、1875年現在の兵庫県に生まれました。「日本人とは何か」という答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、日本民俗学を開拓した人物です。「遠野物語」という本の名前を一度は耳にしたことがある人もいるのではないでしょうか。
しかし、柳田国男は初めから民俗学の研究をしていたわけではありません。1900年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業すると、農商務省農務局農政課に勤務。以後、全国の農村や山を歩くようになります。そして、1909年に東北を旅行した際、初めて遠野を訪れ、「遠野物語」を執筆しました。民俗学に興味を持った柳田国男は、その後官僚の職を辞任し、日本民俗学を確立していきます。こうして民俗学の先駆者となった柳田国男ですが、当時はその考え方に批判の声もありました。しかし、彼が今の日本の民俗学を確立したのは間違いありません。
「遠野物語」というタイトルは聞いたことはあるという方は多いと思いますが、それがどんな内容なのか読んだことがある人は少ないと思います。「遠野物語」は、柳田國男が1910年に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集です。 遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田国男が筆記、編纂する形で出版されました。内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪にまつわるものから山人、マヨヒガ、神隠し、臨死体験、あるいは祀られる神とそれを奉る行事や風習に関するものなど多岐に渡ります。つまり、それぞれの地域に伝わる怪談や伝承、風習などをまとめた本になります。また、「遠野物語」の他に各地のカタツムリの呼び名の方言分布を比較検討することにより、言葉が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにした「蝸牛考」という本も執筆しています。この中で提唱された理論が方言周圏論で、言葉は文化的中心地を中心として、まるで何重もの円を描くように周辺へと伝播し、中心地から遠く離れた地方ほど古い言葉が残っていることを示しています。これをきっかけに現地での調査が活発になり、現在ではこの方言周圏論は懐疑的なものとなっています。
柳田国男の死後、民俗学は地道なフィールドワークを重ねて現在まで広がってきました。これからの民俗学はもっと複雑化してくると思います。それは現代の社会が今後より複雑化していくからです。民俗学は歴史学と密接な関係にあります。今まではある特定の地域の文化を調査することが主流でしたが、現代の民俗学を研究するには、より広範囲でフィールドワークをしていく必要があります。そうしなければ、私たちの時代の民俗学は伝承していかないからです。民俗学は過去を掘り下げるだけではありません。現代の生活を研究することも民俗学の役割なのです。
岡田
2017年09月11日
この「家族動機」を達成するには最も必要なものはお父さんの気力である。そしてその心意気に協力しようとするお母さんの行動力も必要になる。どこでもそうだが大体私立中学に行かせるのは小学校から2.3人という数である。ほとんどの人はやらない。だからこの両親は普通の人たちではないのである。そして塾にやってくる子供たちは普通の環境で育っていない連中ばかり集まってくるのでそこでまたおのずと環境の変化が表れてくる。ここで考えなくてはならないのはその子供を将来頭脳で飯食わせるか体で飯食わせるかということである。頭脳とは公務員や大企業への就職。これには草食系を目指すべきであろう。
肉体で飯食わせるとはもう独立起業家になるしかない。これには「資本は体」であるから塾(学校がなくても塾はある)の休みの日にはできるだけ外に連れて遊ばせねばならない。その時間はライバルは勉強しているが、あえて連れ出す。仕方ない目先よりも将来である。
海へ山へ川へキャンプへ 自然に連れ出す。またカラオケ・パターゴルフ・ボーリング・ビリヤードなどの庶民の楽しむことも体験させる。外食・旅行・祭り・神社仏閣巡りも大切である。ありとあらゆることを子供のうちに体験させておく。どちらにしても大学生になればもう社会人の仲間入りになる。その時に解らないものはないようにしておくのである。
これが人を育てていくという過程である。これで答えが正しく出たならば、社会人として「後輩を育てる」という最も大切な責任も請け負えるであろう。それでこそスタッフである。そこまでくれば後輩は先輩の良いも悪いも関係なしに覚える。
2017年09月10日
「遊ぶ」って一体なんでしょうか。 実は、子供達にとって遊びとは、この世界を知るための大切な実験なんです。
積み木で遊んだら、木を積めるということから、重力や木の質感、積み方による工夫、積み木を積んだ時の形などなど、この世界の色んな側面を学ぶことができます。 そして、この積み木の経験を基盤として、社会に出てから、物づくりをおこなえるようになったりします。
また、ゲームをすれば、指先でコントロールして主人公を動かしますから、脳内と指先の連携が非常に強まりますし、ゲーム中に文字や絵が出るので、文字や絵の認識能力が高まります。 ゲームをすると、コンピューターに慣れ親しむことができます。 今の時代、インターネットやパソコン、スマホの時代ですから、ゲームをすること = 仕事の基礎勉強 となるのです。 実際のところ、ゲームをしていた子供達は、大人になって仕事をする時、パソコンやインターネットに難なく慣れていくことができます。
他には、ボール遊びであれば、サッカーや野球をすることにより、ボールを蹴ったり打ったりする時のタイミングや間合い、感覚の練磨になりますし、グループで行動するため、仲間と行動するということを学べます。 社会に出てグループ活動がうまくできる人たちは、やはり、子供時代にみんなでワイワイ遊んでいた人たちです。
他にもいろいろありますが、遊び=勉強なのです。 社会的にも、成功者のインタビューを聞くと、子供時代に自由に遊びまくった人が多いようです。 このように、遊び=勉強という図式がなりたつことを認識し、子供達には、どんどん遊んでもらうようにしましょう。 以上のことから、「遊んでばっかりしていないで勉強しなさい!」という言葉が、いかに矛盾した言葉であるかが分かります。 そうではなくて、本当は、「勉強ばっかりしていないで遊びなさい!」と注意した方が良いくらいです。 もちろん、学校の勉強も大切ですが、遊びも勉強なのです。 子供の発達を促すには、勉強も大切ですが、どんどん遊ばせてあげてください。
寺澤
2017年09月07日
シュンペーターは資本主義の原動力は「家族動機」にあると言っているつまり、「自分の家族のために遺産を残そう」という動機が働く原動力であると言っている。そうすると、家族ため、子を守るためだから、当然自分の死んだ後のことも考えて行動する。これこそが資本主義の原動力であると言っている。 昨日一国一城の主となることが男のロマンだったといったが、それはまさに「家族動機」からやってきていたのである。しかし最近は持ち家よりもマンションいや借家で住むことを好む方が増え、住まいよりも生活の中身を重視するという観念に切り替わってきた。それは大企業の経営者が経営者でありながらサラリーマン化してしまっているためにあるとシュンペーターは言っている。そこから家長制度は失われ、社長という権威も小さくなり、日本人みな欲求がなくなってしまい、官僚化=社会主義化してしまったのであるとも言っている。
つまりスタッフの根本にある人生観は、この「家族動機」をいまだに追求するものにあると言ってよいであろう。そこで最初に現れる「家族動機」は何か?それは子供の進路であろう。お受験をさせたいという願望が子供への塾通いに現れる。それは小学校3年生からだから2年の2月ぐらいには目標の中学と学力がある程度なければならない。偏差値で言えば4と5しかない。これまで子供を持っていくのに相当な親の労力がかかっている。受験は子供なのだがそれをコントロールしている親の方が大変なのである。これを目指したかどうかで親の地位・名声・収入も必然的に判ってくる。やりたくてもできない、いや考えもしない者にはスタッフを要求しても夢物語で終わってしまう。いや周りからつぶされると言い換えた方がよかろう。
2017年09月06日
さてそこで「躾とは何か」ということになるのだが、躾は字のごとく「身を美しくする」ということになるので、掃除・片付け・整頓などになってくる。
「勉強しなさい」も躾の一部であるが、現代の勉強は「暗記すること」になっている。「受験=暗記=机にじっとしている人」ということになる。これも一部躾が関係してくるのだが、どちらかというと親から受け継がれた天性のものといってよい。東大・京大行っている連中がみんな日本国での金持ちかというとそうでもない。東大卒の連中でも庶民はいるのである。となると勉強ができることは一つのバロメーターにはなるが、すべてではない。しかし社会人の基本は「躾されている」ことに尽きる。躾とはある面鍛錬となる。つまり打たれ強いことである。 なよっとしてちゃあきまへんわ。そこに歴史に学ぶのである。家長制度とは何だったのか。「威厳・権利・義務・分家・独立」大黒柱は強くなくてはならなかった。上座があり、風呂入る順番も食事に箸つける順番もしっかり決められていた。地震も雷も火事も親父も「怖いもの」だった。
そういった環境に育った連中は今は皆無になってきたが、なってきたからこそ彼ら彼女らが社会での「長」=スタッフになっていくのである。
社会での長と言われている人の人柄をよく観察すればよく分かる。それを見習えばいいのである。しかもまずは家庭でである。家庭でできないことが社会でできるはずがない。家庭でできて、社会でできれば次に考えることは「持ち家」である。いっぱしに一国一城の城主になるのである。これが男のロマンである。
2017年09月05日
さてスタッフになる条件がまたむつかしい。作業はもちろんのことである
作業は所詮一人芝居。自分を自分でコントロールすればよい。独身者の特権はまさにここにある。家族を気にしなくて自由気ままに生きていけばよい。ところが家庭を持ち子供ができると、自分のことはもちろん家族のことに対して責任を持たねばならない。何か子供がやらかした。それも親の監督責任とくる。学校の成績が悪い。これも親の指導責任である。ことあることに親の責任となる。
会社もそうである。ラインは自分の作業結果は自分のこととなるが、スタッフはメンバーの作業結果はスタッフの責任となる。しかも自分でも作業しなくてはいけない。まったく家庭における親の役割と同じなのである。特に20代の社員は、家庭における中学生位までと同じと考えられる。とにかく手間暇かかる。仕事が作業としてとらえてしまう。中には「作業さえできればよい」と真に視野の狭いものもいる。そこに違った環境からやってきた者を育てて行く大変さを目の当たりにすることになるすると便りべきものはその会社の企業文化=風土である。それにのっとって「躾」をして行くのである。それに素直に従えないものが9割あるだろう。しかし残った1割の者はスタッフになりえる。
2017年09月05日
お金を貯めるには、消費、浪費、投資という3つを意識してお金を管理することです。
消費のお金とは、毎日生きてく上で、最低限必要なお金の事。家賃、食費、水道代、光熱費、生活日用品購入費など。
浪費のお金とは、なくても生きていけるものにお金を支払う事。贅沢品を買ったり、娯楽に費やすお金など。
投資のお金とは、自分が成長する事や今後自分に見返りが期待できるような事にお金を使うこと。料理教室に通って自分で教室を開くとか、資格の勉強の為に本を買うとかなど。
そして、3つの中でこの投資にお金をかけること。これが一番いいお金の使い方なんだそうです。お金持ちはこういう仕組みをちゃんと知っていて、自己投資をたくさんしているからお金持ちになっている。逆に貧乏な人は、浪費にお金を費やしてしまってるそうです。
これはお金だけじゃなく、時間にも同じ考え方ができます。
時間の消費とは、必要最低限な時間の使い方。仕事、睡眠、食事、入浴。毎日生きていくうえで絶対必要な時間の使い方。これを削ることもできるけど、生活に支障をきたす可能性が高い。
時間の浪費とは、意識的でなく、惰性で物事を行っている時間。目的のないネットサーフィン、テレビのながら見などは時間浪費にあたります。この浪費時間を削ると、使える時間がもっと増えてくると思います。
投資の時間とは、未来がよりよくなるように使っている時間。頭を使って自分で何かを考える、行動ている時間。今の自分より、もっといい自分になれるような時間の使い方。
お金同様に、時間も投資にかけること。つまり“自分が成長する事や今後自分に見返りが期待できるような事”にお金と時間を使うことで、自分の未来が変わってきます。
あなたはお金と時間を何にかけますか?
山本
2017年09月04日
スタッフの仕事は人を育てることにある。まずは「教育」が次に「訓練」がくる。この時間割合は教育が3で訓練は7となる。訓練の終盤に入ってきたら、目標は「独り立ち」になる。スタッフがいなくても作業が何とかできる。困った時にスタッフを呼ぶ。この程度で良い。「まだあれもできない、これもできない」当然そうである。細かなことよりも「1日の流れが理解できることが最も大事となる。1日の中に今まで経験したことがないことがどんどん出てくる。それはその都度説明していけばよい。この状態を「見切り発車」と言う。完璧に育つまで待っていたら1年経っても3年経ってもあかん。その間にまたやり方が変わっていく。変わっていくからまた説明する。きりがないのである。
仕事の心意気はラインのご本人が「覚える気がある」ことにある。相手の気があるからスタッフは時間を割く。いや誰もが初めのうちは一生懸命にスタッフの言うことを聞こうとする。しかし誰もがこれは同じだがご自分が勝手にできるようになったと勘違いし、周りの状況も理解できずに気に入らなくなっていく。自分のやり方が正しいと思い込むのである。しかしスタッフは役目を終えている。ポジションチェンジがない限りスタッフがラインに教育することはない。スタッフにも他にやるべきことがあるのだ。この状態ではラインが一人前の社会人として成長していることが大切となる。スタッフはラインの親ではない。
2017年09月04日
会社に新入社員を入れる。これは何のためか?それはその会社の長年の伝統を引き継いでもらいためである。伝統とは企業文化である。
一旦採用され部署に配属される。月日がたってくるとその人間はラインかスタッフか判断される。それは上司が判断するだけでなく、先輩や仲間もである。スタッフになれば「企業文化」を引き継ぐことに徹していくことになる。これによって彼らの地位・名声・収入が決まっていく。
スタッフはラインを教育する。ラインに求めるものは決められた作業を間違いなく一定の時間で行ってもらうことである。
まずは「教育」から始まる。教育とは「不足する知識と経験を補うこと」である。そして次にやってくるのが「訓練」である。訓練とは「繰り返し繰り返し同じ作業を行って、早く正確にできるようさせること」である。
作業できるからスタッフになれるわけではない。作業は今AI・機械化になっている。作業員はその機械の取扱者になりつつある。そこには「職人=子弟制度」はもはや失われている。
しかしスタッフには子弟制度は残されている。スタッフ作りは常に「一子相伝」なのである。あくまでも教えられる側の欲求があるから、日々鍛錬が行われるのである。鍛錬とは我慢・矛盾の理解・犠牲・苦労 それこそラインにとっては全く近寄りたくない世界なのである。
そこで最初に戻るが会社は人を採用する。何のためにかである。
師は経験上無駄骨はおらない。それほど暇ではない。ましてやラインに口出しする時間はないのである。