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2017年08月24日
豊臣秀吉がなくなる前に千利休を切腹させている。利休は武士ではないので切腹させる必要がないのだが、それをあえてさせまた本人もその通りに切腹している。
なぜ切腹させたか?いやなぜ逆鱗に触れたか?それは豊臣秀吉は派手好きだった。黄金の茶室。黄金の衣装。百姓の子供がのし上がった成り上がったと言われるのがいやだ。ということでとにかく派手にした。その派手さが権力の象徴であり、周りの大名もその力のすごさに魅了され従った。無言の圧力といってよかったのであろう。
しかし利休と1対1のお茶の席では狭い部屋で訳が分からん茶碗で自分よりはるかに格下の者の入れた好きでもないお茶を入れられたとき、深々とお辞儀をし、飲み終えた後にもまたそれなりに感謝の言葉を述べることが段々と苦痛になってきた。
さらに元をただせば織田信長の家臣時代、信長が利休にお茶を入れさせたとき、信長が「このサルにも入れてやってくれ」と言った。利休は「はて?サルにお茶の味が分かりましょうか?」と言ったらしいのだが、そのことをずっと忘れずに引っ張ってきたというのである
人間の執念・恨み・劣等感と言うものは人までも殺すかと、思わさせる出来事であった。 まさに平家物語の冒頭のごとくきらびやかなる桃山の時代=豊臣時代もその後まもなく1代限りで滅び、時代は徳川に移り変わっていくのであった。 人間はまず己の能力を知ることである。いつ知る力を持てるか?大体35歳位であろう。それまでは人間まだまだ子供。何もかも駄々こねる。自分が一番。かまってほしい。しかし周りをかまって面倒を見る力はない。籠の鳥の中でやたらに泣き騒ぐ九官鳥のようなのである。青春からの20年間は真に矛盾した時代なのである。それを40代以降の先輩は理解して上げる度量も必要なのである。
2017年08月20日
「民俗学」とは、民俗文化を内側から明らかにしようとする学問のことです。現代生活のなかに伝承される文化がいかに表現され,いかなる形で存在し,またどのように推移してきたかを,同国人的,同時代人的な感覚のなかで見きわめ,さらにそれぞれの理由を追及しようとするのが目的にあります。
19世紀後半ヨーロッパではイギリスを中心に成立し、その後スペイン、フランス、アメリカなどの国々に成立しました。主に「民族学」と区別するために「フォークロア」と呼ばれています。この「フォークロア」という言葉は、本来イギリスの民俗学の称で、19世紀のなかば1846年にウィリアム・ジョン・タムズが初めて使い出したことばである。従来、民間故事とよんでいたもの、すなわち俗信とか、なぞなぞ、伝説、昔話その他の口承文芸などを総称する親しみやすいことばとして案出されたものとされています。また、ドイツの民俗学は「フォルクスクンデ」とよばれ、語義はフォークロアと同じですがその翻訳ではなく、民俗資料を取り扱いながらその最終の目標を明確に説くものが多いです。またこれに反し、ドイツ民族精神を明らかにすることより、原始的非個人主義的な共同体の認識をもってフォルクスクンデの任務と説くという主張もあれば、一民族の特性を探究するにとどまらず、民族的観念の形成、伝播(でんぱ)、推移にあたって働く精神的勢力を追究しようとするものなど多彩であります。
「民俗学」とは簡単に言ってしまえば、それぞれの地域に伝わる伝承や言い伝え、文化や人々の生活習慣を研究する学問なのです。その中にはオカルトや妖怪、ハレとケ等、私たちの日常に根付いている文化も含まれているのです。「民族学」や「文化人類学」と比較されることがよくありますが、「民族学」は「エスノロジー」と呼ばれ、人類の文化を研究する学問をさし、広い意味における人類学の一部門であるとされています。人類学においては国によって学問的伝統が異なり、またいろいろな学派が存在し、さらに歴史的な変遷もあるので、民族学が具体的には何を意味しているかは一定していません。このように「民俗学」と「民族学」は研究する対象から違うのですが、「民俗学」は「民族学」が基盤にあることが前提です。その前提の上で、「日本の民俗学」とはどのような学問なのか探っていく必要があるのです。
岡田
2017年08月16日
売上が悪くて対応策を立てている会社が多い。はたまた○○○運輸の様に忙しすぎて悩む会社もある。どちらにしても経営者が汗かいて労働していないと今の会社の実態が分からない。かといって作業員と同じ仕事ばかりしていると経営者の仕事である「明日を読み取る」ことができない。経営者は明日を読み取りながら現実を把握しながら汗かいて運営しなければならない。
売上が少なくなってきたら途端に「売上上げろ」の号令がかかる。そしてなりふり構わず今まで以外のお客様へ営業訪問する。それでも間に合わない場合は今まで売ったことのない商品をどっかからか引っ張ってきて売りにかける。当然後発なので新規訪問にしても新商材の販売にしても今お買い上げいただいている値段の下をくぐらなければならない。すると売り上げは回復する。いやそれ以上に増える。しかし今度は忙しいわりに利益が残らなくなってくる。それが○○○運輸のぶち当たった壁である。無理やり減った売り上げを取り戻そうとするから、歪が発生しその歪みがあっという間に膨らんでコントロールできなくなる。
2017年08月16日
人間ならだれもがこの壁にぶち当たる。今まで考えもしなかったことに真剣に向き合う。過去はどうだったか。それに比べて今はどうか。周りはどうか。父親や母親はどうしていたか。色々考えてみる。答えがなかなか見つからない。あ、この方法で行こう!とやってみる。なんか変わった気がするがそれが本当の姿なのかわからない。それは人生のまだ自分自身が見知らぬ目標に対するストレス、コンプレックス、疲労、倦怠 とにかく数限りない物 もやっとしたもの 色々とおしかぶっている。それはいつまでたってもなくならない。一つなくなったと思えばまたやってくる。
30代の壁 体力の低下 家庭を持った責任 子育て
40代の壁 知力の衰え 両親の健康問題 子供の進路 借金
50代の壁 眼力・聴力の衰え 社会人としての必要性 孤独感
60台の壁 定年後の身の置き方 生活費 借金・保険金・相続
どんどんどんどんどん これでもか!というぐらいに生きている間は、次から次へと壁が立ちふさがる。あなただけではない。誰にでもである。大小は関係ない。年齢も性別も関係ないのである。あるとき突然降りかかるのである。それが人生である。
体力の衰えは知力でカバー 仕事にどっぷりつかる。責任が増えれば当然であるが、何とも言えぬもやもやも増える。
合い方も子供もましてや親兄弟も気を使ってくれるが解決はしてくれない。結局自分が立ち向かうしかないのである。いつまでも輝きを失わないでいられる人はすごいと思いますよ。とくに50歳超えてまだ新しいことに頑張る人は素晴らしい。
2017年08月15日
子供が少し大きくなると、何にでも「イヤイヤ!」と拒否するようになります。でも、この「イヤイヤ攻撃」は自我の目覚めであり、自分の意見というものが発達してきた証拠なので、むしろ喜ぶようにしてください。
人間誰しも、自分の意見を持ち、自分の主張ができるようにならないと、一人前に生きていくことはできません。
したがいまして、自己主張ができるようになったということは、自然に問題なく成長できていると考えてもらってもいいわけです。
そして、自己主張ができるようになってくると、何にでも「イヤ!」と言って、自分の主張を試したくなるのです。
ですので、「イヤイヤ!」攻撃は、決して親が嫌いになったとか、わがままになったとか、そういうわけではありませんので、そのことで悩む必要はないし、子供を激しく怒鳴ったり、きつく叱り飛ばしたりする必要はないのです。
もちろん、「イヤ!」と言われて「はい、そうですか」では、何が悪いのかが子供には分かりませんので、説明はしてあげる必要があります。
「今からスーパーで買い物しにいこうね」⇒「イヤ!」⇒「買い物しないとご飯が食べられなくなるよ」
などなど、ちゃんと理由があるんだよということを分かりやすく教えてあげてください。
1割~2割くらい理解してくれたらいいくらいでしょうか。
いずれにしろ、子供が自己主張の能力が発達してくると、何にでも「イヤ!」と言い始めますが、自然なことですから、変に悩まないでください。
そして、「イヤイヤ攻撃」はかなりエスカレートしてきますが、自分を落ち着けて、冷静になって、怒鳴り倒したり、手をあげたり、叱り飛ばしたり、できるだけしないようにしましょう。
寺澤
2017年08月06日
最近ニュースでもてはやされるのが自動車のことである。2020年ごろの自動運転技術。2040年ごろのディーゼル・ガソリン車廃止。
21世紀に入ってPCや携帯が発展した。コンピュータの小型化だ。我々の生活を根本から変えた。ずいぶん生活が楽になった。視野・情報が広がった。事務系の作業を全く変えた。
今、目の前に迫っているのはさらに進化した技術である。これは肉体系の作業を変えようとしている。AI化による自動生産、自動労働 機械とコンピューターが人間の代わりを務める。ますます人間は楽になる。企業は助かる。
20世紀後半は中国が先進国の製造国となり、我々の生活を豊かにしてくれた。次は中国からの輸入に頼る時代から自国のAIに頼る時代がやって来る。この時代は人間から「判断と肉体労働」を奪っていく。ますます人はサービス業へと移っていく。しかしいずれその受け皿も限界が来る。人間の仕事を奪えば購買力は無くなって行くからである。残るのは経営者と若干の従業員と機械達であろうか。そして今後必要となっていくのは機械を扱う者たちと機械をメンテする者達であろう。これが21世紀である。
「人口減少、汗かく労働したくない、1日の労働時間の限定、税金不足」様々な問題が移り変わろうとしている。我々はどう変化していくべきか?
最近これからの時代を見据えて思うことは、「身の程を知ろう」と言うことだ。20世紀は拡大路線であった。そのとどのつまりが世界の壁がなくなり、知らない人が作ったものがどんどん我々の生活を豊かにした。しかし21世紀は逆に縮小路線に移っていくであろう。
すでにアパート建築のピークは2016年で終わった。ホテルの建設ラッシュも2017年で終わりを迎えそうである。新築家も前回の増税後芳しくない。行先はリフォームであるが、家というものは1回はリフォームして次世代が移り住むが2回目のリフォームをしてその次の世代が移り住むかというと、そんなことは考えにくい。となるとリフォームも大きな期待をもたらさない。むしろ今は空き家がどんどん増え続けているのである。さらに人口減少が追い打ちをかけている。
これらの現象を考えた時に「身の程を知る」をポイントで考えていくと、拡大路線よりも現状維持かむしろ縮小路線を取った方が生きながらえるように思われる。生き延びてこそ我々は生活できる。拡大という夢希望 かっこのいい合言葉は終わりをつげ、生活することを目指すべきである。
2017年08月06日
人生には転機があります。 『転機』とはその者の人生を良い方向か悪い方向か変わるきっかけとなる出来事です。
人生は平穏で安全が保障されていたとしても転機は訪れて欲しいとは思いませんか?
人の一生には転機が3回訪れるとされています。それは結婚・仕事・家族を持つなどのことから買い物・芸術物など様々で、その時は大きな物事ととらえないことも多いとされます。20代の半ば頃に1回、30代後半に1回、50代前半に1回、合計3回人生には転機が訪れてくるだろうとの言われは、ひとつの目安であって、生きていく上で価値観や生きがいに対する目覚め・気づきがその年齢ほどに成長することで出会える確立とされています。実際には、必ず転機が訪れはするが回数や内容は人それぞれ違うことはあるでしょう。
人生に転機が訪れる理由とは、より良い人生を送る為に必要なプロセスの一つで、転機とは人生で言うところの谷の部分なのではないでしょうか。人は皆、波瀾万丈な山あり谷ありの人生よりも、穏やかで波の少ない人生を夢見ることがあります。しかし少なからず穏やかで平坦な人生は無いのではないかと思います。そして、山にいる時には気付くことのできなかった、谷になった時に見えてくる風景というものがあります。人は谷底に落ち、這いあがってくることで、人として成長していくんだと思います。それが転機と呼ばれるものであって、その転機を上手に乗り越えることによってより良い人生を送ることができるのです。
人生の転機は意外に気づかない所で始まってきています。アメリカの実業家スティーブ・ジョブスの言葉にこんな言葉があります。
もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?
山本
2017年07月27日
2017年07月18日
若い時は、時間は無限にあり、健康であることも当たり前のように感じている。いや時間の観念や健康について深く考えることなどなかったと言っても良い。その日暮らしの気ままな生き方。しかしいつの時からか時間という物の価値に目覚め、時間はお金で買えないということ、そこに生命
つまり健康・寿命という物があることに気がつく。その時から自分の生きているスピードと同じ部類の人としか気が合わなくなり、自然と若者から遠ざかってしまうのも、これまた自然の原理なのであろうか。唯一接点があるとしたら「伝承」であろうか?しかし、これもまずは若者が立ち上がらないと!いくら伝えるべきことがあっても 相手がその気でなければまた、経験者も中途半端なものであろう。ここに哲学があるなしの差が出る。
2017年07月18日
一番最初に『「生涯学習」とは、人々が自発的に「自己の充実」、「生活の向上」、「職業能力の向上」の為に、学ぶ内容を選び、充実した人生を送ることを目指して生涯にわたって行う学習のことです。』というように説明しました。
そして、これまで図書館や博物館、美術館の役割、生涯スポーツ、世界の生涯学習を取り上げてきました。それにより、現代の日本の生涯学習において様々な課題が見えてきました。
現代社会は、パーソナルコンピューターや携帯電話が普及し、日常生活にも欠かせないものとなりました。インターネットと電子メールを通じて、世界中から多種多様で大量の情報を集め、匿名の他者とのコミュニケーションをとることが容易になり、また、パーソナルコンピューターや携帯電話による情報発信機能は、「いつでも・だれでも・どこでも」社会参加と生涯学習の機会を生み出す可能性に開かれています。このような機能を積極的に活用できる、「情報選択・運用能力(メディア・リテラシー)」を身につける学習が求められます。
現在ではメディアの利点を生かし、地域の交流とつながりが生まれる仕組みづくりを進めていくこともできるようになりました。むしろ今の時代はメディアを活かした取り組みが主流になってきているでしょう。しかし、他方で個人情報の流出問題や、インターネットを介しての誹謗中傷などの問題が、大人のみならず子どもの間でも起こっています。また、真偽のわからない情報に惑わされ、誤った情報を元に行動を起こしてしまう可能性も孕んでいます。そのためにも、私たちには情報を見極め、選択し、安全に活用していく力である「情報選択・運用能力(メディア・リテラシー)」が求められているのです。こうしたメディア活用の適切な方法を学ぶことは、老若男女を問わず重要な課題となってきます。
また、私たちの暮らす現代社会の課題解決に共通することは、課題のそれぞれが世代内や特定の集団内のみで解決できる内容ではなく、世代・立場・活動内容を超えたつながりの視点から、ものごとを捉え直してみることの必要性です。社会には、年齢も職業も違い、人生や社会の経験も異なり、さまざまな考えを持った人々が暮らしています。個人や組織が、単独では解決できない課題を解決するためには、個人と個人、個人と組織、組織と組織が、相互に対等な関係を築きながら有機的につながり合い、協力しあっていくことが求められています。地域には、町会活動のほかにも、青少年育成活動、まちづくり活動、社会福祉活動、自主学習活動など、さまざまな自立的な活動が展開しています。このような地域のさまざまな組織、団体、グループ同士が連携したり、協働したりすることで、これまでにない発想を生み出したり、相乗効果による新しい可能性を広げることが期待できます。
また、これまで、多くの課題は「カネ」や「モノ」などの物質を投入する手法で解決することもできました。しかし、限りある社会資源を効率良く活用していくためには、人々が「知恵」を出し合い、新しい発想や仕組みを考え出し、課題を解決していくことが求められています。子育て支援、若者の社会的自立や社会参加、高年齢層の社会参加など喫緊といわれる個別課題も、複合的に捉えなおすことにより、多様な学習を生み出す互恵的な関係の場が生まれます。地域の多様な学習資源・社会資源がつながることで、多世代間交流の場、相互支援の場、次世代育成の場、学習成果の還元の場として再構成することが課題解決の鍵になっていきます。
これまで、「生涯学習」という言葉は、人生後半の趣味や生きがいづくりのための学習というイメージが強く持たれてきましたが、時代の移り変わりや私たちの生活様式の多様化にともなって、私たちが学ぶ環境や目的にも変化が現れています。今やインターネットを使いこなせないと時代に乗り遅れてしまいますし、様々なものが電子化されてきて便利な社会になってきています。しかし、全ての物を使いこなすというのは無理があります。そのため、現代では簡略化が進み、お年寄りや子供でも簡単に操作できる電子機器が増えてきました。充実した人生を送るために学習するということは、日々変化していく現在の社会を生き抜くための術を学ぶというように言えると思います。それは老若男女すべての世代に言えることであり、これから生涯学習の幅はどんどん広がっていくでしょう。そして、学習の方法についても多様化が求められる時代になってきたのだと考えることができるのです。
岡田