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2017年09月05日
さてスタッフになる条件がまたむつかしい。作業はもちろんのことである
作業は所詮一人芝居。自分を自分でコントロールすればよい。独身者の特権はまさにここにある。家族を気にしなくて自由気ままに生きていけばよい。ところが家庭を持ち子供ができると、自分のことはもちろん家族のことに対して責任を持たねばならない。何か子供がやらかした。それも親の監督責任とくる。学校の成績が悪い。これも親の指導責任である。ことあることに親の責任となる。
会社もそうである。ラインは自分の作業結果は自分のこととなるが、スタッフはメンバーの作業結果はスタッフの責任となる。しかも自分でも作業しなくてはいけない。まったく家庭における親の役割と同じなのである。特に20代の社員は、家庭における中学生位までと同じと考えられる。とにかく手間暇かかる。仕事が作業としてとらえてしまう。中には「作業さえできればよい」と真に視野の狭いものもいる。そこに違った環境からやってきた者を育てて行く大変さを目の当たりにすることになるすると便りべきものはその会社の企業文化=風土である。それにのっとって「躾」をして行くのである。それに素直に従えないものが9割あるだろう。しかし残った1割の者はスタッフになりえる。
2017年09月05日
お金を貯めるには、消費、浪費、投資という3つを意識してお金を管理することです。
消費のお金とは、毎日生きてく上で、最低限必要なお金の事。家賃、食費、水道代、光熱費、生活日用品購入費など。
浪費のお金とは、なくても生きていけるものにお金を支払う事。贅沢品を買ったり、娯楽に費やすお金など。
投資のお金とは、自分が成長する事や今後自分に見返りが期待できるような事にお金を使うこと。料理教室に通って自分で教室を開くとか、資格の勉強の為に本を買うとかなど。
そして、3つの中でこの投資にお金をかけること。これが一番いいお金の使い方なんだそうです。お金持ちはこういう仕組みをちゃんと知っていて、自己投資をたくさんしているからお金持ちになっている。逆に貧乏な人は、浪費にお金を費やしてしまってるそうです。
これはお金だけじゃなく、時間にも同じ考え方ができます。
時間の消費とは、必要最低限な時間の使い方。仕事、睡眠、食事、入浴。毎日生きていくうえで絶対必要な時間の使い方。これを削ることもできるけど、生活に支障をきたす可能性が高い。
時間の浪費とは、意識的でなく、惰性で物事を行っている時間。目的のないネットサーフィン、テレビのながら見などは時間浪費にあたります。この浪費時間を削ると、使える時間がもっと増えてくると思います。
投資の時間とは、未来がよりよくなるように使っている時間。頭を使って自分で何かを考える、行動ている時間。今の自分より、もっといい自分になれるような時間の使い方。
お金同様に、時間も投資にかけること。つまり“自分が成長する事や今後自分に見返りが期待できるような事”にお金と時間を使うことで、自分の未来が変わってきます。
あなたはお金と時間を何にかけますか?
山本
2017年09月04日
スタッフの仕事は人を育てることにある。まずは「教育」が次に「訓練」がくる。この時間割合は教育が3で訓練は7となる。訓練の終盤に入ってきたら、目標は「独り立ち」になる。スタッフがいなくても作業が何とかできる。困った時にスタッフを呼ぶ。この程度で良い。「まだあれもできない、これもできない」当然そうである。細かなことよりも「1日の流れが理解できることが最も大事となる。1日の中に今まで経験したことがないことがどんどん出てくる。それはその都度説明していけばよい。この状態を「見切り発車」と言う。完璧に育つまで待っていたら1年経っても3年経ってもあかん。その間にまたやり方が変わっていく。変わっていくからまた説明する。きりがないのである。
仕事の心意気はラインのご本人が「覚える気がある」ことにある。相手の気があるからスタッフは時間を割く。いや誰もが初めのうちは一生懸命にスタッフの言うことを聞こうとする。しかし誰もがこれは同じだがご自分が勝手にできるようになったと勘違いし、周りの状況も理解できずに気に入らなくなっていく。自分のやり方が正しいと思い込むのである。しかしスタッフは役目を終えている。ポジションチェンジがない限りスタッフがラインに教育することはない。スタッフにも他にやるべきことがあるのだ。この状態ではラインが一人前の社会人として成長していることが大切となる。スタッフはラインの親ではない。
2017年09月04日
会社に新入社員を入れる。これは何のためか?それはその会社の長年の伝統を引き継いでもらいためである。伝統とは企業文化である。
一旦採用され部署に配属される。月日がたってくるとその人間はラインかスタッフか判断される。それは上司が判断するだけでなく、先輩や仲間もである。スタッフになれば「企業文化」を引き継ぐことに徹していくことになる。これによって彼らの地位・名声・収入が決まっていく。
スタッフはラインを教育する。ラインに求めるものは決められた作業を間違いなく一定の時間で行ってもらうことである。
まずは「教育」から始まる。教育とは「不足する知識と経験を補うこと」である。そして次にやってくるのが「訓練」である。訓練とは「繰り返し繰り返し同じ作業を行って、早く正確にできるようさせること」である。
作業できるからスタッフになれるわけではない。作業は今AI・機械化になっている。作業員はその機械の取扱者になりつつある。そこには「職人=子弟制度」はもはや失われている。
しかしスタッフには子弟制度は残されている。スタッフ作りは常に「一子相伝」なのである。あくまでも教えられる側の欲求があるから、日々鍛錬が行われるのである。鍛錬とは我慢・矛盾の理解・犠牲・苦労 それこそラインにとっては全く近寄りたくない世界なのである。
そこで最初に戻るが会社は人を採用する。何のためにかである。
師は経験上無駄骨はおらない。それほど暇ではない。ましてやラインに口出しする時間はないのである。
2017年08月24日
豊臣秀吉がなくなる前に千利休を切腹させている。利休は武士ではないので切腹させる必要がないのだが、それをあえてさせまた本人もその通りに切腹している。
なぜ切腹させたか?いやなぜ逆鱗に触れたか?それは豊臣秀吉は派手好きだった。黄金の茶室。黄金の衣装。百姓の子供がのし上がった成り上がったと言われるのがいやだ。ということでとにかく派手にした。その派手さが権力の象徴であり、周りの大名もその力のすごさに魅了され従った。無言の圧力といってよかったのであろう。
しかし利休と1対1のお茶の席では狭い部屋で訳が分からん茶碗で自分よりはるかに格下の者の入れた好きでもないお茶を入れられたとき、深々とお辞儀をし、飲み終えた後にもまたそれなりに感謝の言葉を述べることが段々と苦痛になってきた。
さらに元をただせば織田信長の家臣時代、信長が利休にお茶を入れさせたとき、信長が「このサルにも入れてやってくれ」と言った。利休は「はて?サルにお茶の味が分かりましょうか?」と言ったらしいのだが、そのことをずっと忘れずに引っ張ってきたというのである
人間の執念・恨み・劣等感と言うものは人までも殺すかと、思わさせる出来事であった。 まさに平家物語の冒頭のごとくきらびやかなる桃山の時代=豊臣時代もその後まもなく1代限りで滅び、時代は徳川に移り変わっていくのであった。 人間はまず己の能力を知ることである。いつ知る力を持てるか?大体35歳位であろう。それまでは人間まだまだ子供。何もかも駄々こねる。自分が一番。かまってほしい。しかし周りをかまって面倒を見る力はない。籠の鳥の中でやたらに泣き騒ぐ九官鳥のようなのである。青春からの20年間は真に矛盾した時代なのである。それを40代以降の先輩は理解して上げる度量も必要なのである。
2017年08月20日
「民俗学」とは、民俗文化を内側から明らかにしようとする学問のことです。現代生活のなかに伝承される文化がいかに表現され,いかなる形で存在し,またどのように推移してきたかを,同国人的,同時代人的な感覚のなかで見きわめ,さらにそれぞれの理由を追及しようとするのが目的にあります。
19世紀後半ヨーロッパではイギリスを中心に成立し、その後スペイン、フランス、アメリカなどの国々に成立しました。主に「民族学」と区別するために「フォークロア」と呼ばれています。この「フォークロア」という言葉は、本来イギリスの民俗学の称で、19世紀のなかば1846年にウィリアム・ジョン・タムズが初めて使い出したことばである。従来、民間故事とよんでいたもの、すなわち俗信とか、なぞなぞ、伝説、昔話その他の口承文芸などを総称する親しみやすいことばとして案出されたものとされています。また、ドイツの民俗学は「フォルクスクンデ」とよばれ、語義はフォークロアと同じですがその翻訳ではなく、民俗資料を取り扱いながらその最終の目標を明確に説くものが多いです。またこれに反し、ドイツ民族精神を明らかにすることより、原始的非個人主義的な共同体の認識をもってフォルクスクンデの任務と説くという主張もあれば、一民族の特性を探究するにとどまらず、民族的観念の形成、伝播(でんぱ)、推移にあたって働く精神的勢力を追究しようとするものなど多彩であります。
「民俗学」とは簡単に言ってしまえば、それぞれの地域に伝わる伝承や言い伝え、文化や人々の生活習慣を研究する学問なのです。その中にはオカルトや妖怪、ハレとケ等、私たちの日常に根付いている文化も含まれているのです。「民族学」や「文化人類学」と比較されることがよくありますが、「民族学」は「エスノロジー」と呼ばれ、人類の文化を研究する学問をさし、広い意味における人類学の一部門であるとされています。人類学においては国によって学問的伝統が異なり、またいろいろな学派が存在し、さらに歴史的な変遷もあるので、民族学が具体的には何を意味しているかは一定していません。このように「民俗学」と「民族学」は研究する対象から違うのですが、「民俗学」は「民族学」が基盤にあることが前提です。その前提の上で、「日本の民俗学」とはどのような学問なのか探っていく必要があるのです。
岡田
2017年08月16日
売上が悪くて対応策を立てている会社が多い。はたまた○○○運輸の様に忙しすぎて悩む会社もある。どちらにしても経営者が汗かいて労働していないと今の会社の実態が分からない。かといって作業員と同じ仕事ばかりしていると経営者の仕事である「明日を読み取る」ことができない。経営者は明日を読み取りながら現実を把握しながら汗かいて運営しなければならない。
売上が少なくなってきたら途端に「売上上げろ」の号令がかかる。そしてなりふり構わず今まで以外のお客様へ営業訪問する。それでも間に合わない場合は今まで売ったことのない商品をどっかからか引っ張ってきて売りにかける。当然後発なので新規訪問にしても新商材の販売にしても今お買い上げいただいている値段の下をくぐらなければならない。すると売り上げは回復する。いやそれ以上に増える。しかし今度は忙しいわりに利益が残らなくなってくる。それが○○○運輸のぶち当たった壁である。無理やり減った売り上げを取り戻そうとするから、歪が発生しその歪みがあっという間に膨らんでコントロールできなくなる。
2017年08月16日
人間ならだれもがこの壁にぶち当たる。今まで考えもしなかったことに真剣に向き合う。過去はどうだったか。それに比べて今はどうか。周りはどうか。父親や母親はどうしていたか。色々考えてみる。答えがなかなか見つからない。あ、この方法で行こう!とやってみる。なんか変わった気がするがそれが本当の姿なのかわからない。それは人生のまだ自分自身が見知らぬ目標に対するストレス、コンプレックス、疲労、倦怠 とにかく数限りない物 もやっとしたもの 色々とおしかぶっている。それはいつまでたってもなくならない。一つなくなったと思えばまたやってくる。
30代の壁 体力の低下 家庭を持った責任 子育て
40代の壁 知力の衰え 両親の健康問題 子供の進路 借金
50代の壁 眼力・聴力の衰え 社会人としての必要性 孤独感
60台の壁 定年後の身の置き方 生活費 借金・保険金・相続
どんどんどんどんどん これでもか!というぐらいに生きている間は、次から次へと壁が立ちふさがる。あなただけではない。誰にでもである。大小は関係ない。年齢も性別も関係ないのである。あるとき突然降りかかるのである。それが人生である。
体力の衰えは知力でカバー 仕事にどっぷりつかる。責任が増えれば当然であるが、何とも言えぬもやもやも増える。
合い方も子供もましてや親兄弟も気を使ってくれるが解決はしてくれない。結局自分が立ち向かうしかないのである。いつまでも輝きを失わないでいられる人はすごいと思いますよ。とくに50歳超えてまだ新しいことに頑張る人は素晴らしい。
2017年08月15日
子供が少し大きくなると、何にでも「イヤイヤ!」と拒否するようになります。でも、この「イヤイヤ攻撃」は自我の目覚めであり、自分の意見というものが発達してきた証拠なので、むしろ喜ぶようにしてください。
人間誰しも、自分の意見を持ち、自分の主張ができるようにならないと、一人前に生きていくことはできません。
したがいまして、自己主張ができるようになったということは、自然に問題なく成長できていると考えてもらってもいいわけです。
そして、自己主張ができるようになってくると、何にでも「イヤ!」と言って、自分の主張を試したくなるのです。
ですので、「イヤイヤ!」攻撃は、決して親が嫌いになったとか、わがままになったとか、そういうわけではありませんので、そのことで悩む必要はないし、子供を激しく怒鳴ったり、きつく叱り飛ばしたりする必要はないのです。
もちろん、「イヤ!」と言われて「はい、そうですか」では、何が悪いのかが子供には分かりませんので、説明はしてあげる必要があります。
「今からスーパーで買い物しにいこうね」⇒「イヤ!」⇒「買い物しないとご飯が食べられなくなるよ」
などなど、ちゃんと理由があるんだよということを分かりやすく教えてあげてください。
1割~2割くらい理解してくれたらいいくらいでしょうか。
いずれにしろ、子供が自己主張の能力が発達してくると、何にでも「イヤ!」と言い始めますが、自然なことですから、変に悩まないでください。
そして、「イヤイヤ攻撃」はかなりエスカレートしてきますが、自分を落ち着けて、冷静になって、怒鳴り倒したり、手をあげたり、叱り飛ばしたり、できるだけしないようにしましょう。
寺澤
2017年08月06日
最近ニュースでもてはやされるのが自動車のことである。2020年ごろの自動運転技術。2040年ごろのディーゼル・ガソリン車廃止。
21世紀に入ってPCや携帯が発展した。コンピュータの小型化だ。我々の生活を根本から変えた。ずいぶん生活が楽になった。視野・情報が広がった。事務系の作業を全く変えた。
今、目の前に迫っているのはさらに進化した技術である。これは肉体系の作業を変えようとしている。AI化による自動生産、自動労働 機械とコンピューターが人間の代わりを務める。ますます人間は楽になる。企業は助かる。
20世紀後半は中国が先進国の製造国となり、我々の生活を豊かにしてくれた。次は中国からの輸入に頼る時代から自国のAIに頼る時代がやって来る。この時代は人間から「判断と肉体労働」を奪っていく。ますます人はサービス業へと移っていく。しかしいずれその受け皿も限界が来る。人間の仕事を奪えば購買力は無くなって行くからである。残るのは経営者と若干の従業員と機械達であろうか。そして今後必要となっていくのは機械を扱う者たちと機械をメンテする者達であろう。これが21世紀である。
「人口減少、汗かく労働したくない、1日の労働時間の限定、税金不足」様々な問題が移り変わろうとしている。我々はどう変化していくべきか?
最近これからの時代を見据えて思うことは、「身の程を知ろう」と言うことだ。20世紀は拡大路線であった。そのとどのつまりが世界の壁がなくなり、知らない人が作ったものがどんどん我々の生活を豊かにした。しかし21世紀は逆に縮小路線に移っていくであろう。
すでにアパート建築のピークは2016年で終わった。ホテルの建設ラッシュも2017年で終わりを迎えそうである。新築家も前回の増税後芳しくない。行先はリフォームであるが、家というものは1回はリフォームして次世代が移り住むが2回目のリフォームをしてその次の世代が移り住むかというと、そんなことは考えにくい。となるとリフォームも大きな期待をもたらさない。むしろ今は空き家がどんどん増え続けているのである。さらに人口減少が追い打ちをかけている。
これらの現象を考えた時に「身の程を知る」をポイントで考えていくと、拡大路線よりも現状維持かむしろ縮小路線を取った方が生きながらえるように思われる。生き延びてこそ我々は生活できる。拡大という夢希望 かっこのいい合言葉は終わりをつげ、生活することを目指すべきである。