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2016年07月07日
自分自身を冷静に見つめてみよう。自分が会話している題材内容は時間軸で言うといつの話をしているか?たとえばサザエさんに出てくる井戸端会議の内容は「過去」の話題である。TVの品評も「過去」のことである
子供の成績も「過去」である。今度〇〇でテートしようは「未来」である。
今日の予定は、も「未来」「盆明けからあなたにはこういう仕事をお願いします。これも「未来」。私は1年後に△△という目標を達成します。「未来」
さて?あなたの毎日の頭脳は時間軸で言うとどちらのことを主に考えていますか?よくある話。たとえば定年離脱した年齢層と会話するとほとんど「過去はこうだった、あの時はああだった」ということばかり。「これからこうなる。それは具体的にこう考えるからだ」とか、「今こういう新しいことに取り組んでいるがあなたはどう思うか?」という将来像について語る人は少ない。いやもっと言うと「最近体の具合が悪くて……、この間となりの人がなくなったよ……、同窓会に行ったら6人ほどかけていたよ」と言うことに頭が働いていてと言うかその程度しか話す内容がなくて、頭脳自体が劣化していっているのではないでしょうか?
いや社会にリタイヤした人々ならそれでも良い。徒然草の世界でいいのである。しかし現役者、しかも明日の日本国を背負って立つ若者はこれではいけない。常に時間軸は「未来」でなければ!
藤榮は会議を重要視しないがそれは過去を区切って振り返ってみてもしょせん「過去」だからである。どうせなら起こったその日に、と言うよりも目標とのずれを反省しずれを修正するコントロールを目指すべきである。
受動的であるのが会議形式、片や目標をかかげ、それに到達するために自己啓発し、学んだ知識を実践し、失敗を自ら反省し、目標に近づけていく能動的生き方を行うべきである。
2016年07月07日
昨日の雑誌に自動車の自動運転が2016年から始まりそうだと出ていた。一番早いのがスバルその次が日産だそうで、まずは高速道路から始まるそうだ。360度車にカメラが設置され、起こりうるべき事態をすべてコンピューターに入力しておき、それぞれの対処法を自動で取るというシステムである。囲碁将棋の対戦と同じである。
しかし私は思う。人工頭脳はあらゆる角度で経験された知識をインプットされ、それぞれ起きたことに素早く対応してくれるが、未来時間軸に対して目標を持ったり、また火事場のバカ力も出ないし、組織の力も要求できない。組織の力とは集団心理、つまり宗教みたいな力=ある意味暴走である力。しかし、いかに人工知能に打ち勝つか?皆さん考えたことありますか?私は頭が悪いからそういうくだらないことばかり考えて生きている。
相手が機械だろうが負けたくない。と言うより違うレベルで生きていきたい。その生きる考えの中で、新しい未来を見つけ出していきたい。
人工知能など所詮人間の経験の集大である。予期せぬことを行っていく者が知識人であり、クリエイティブな世界なのである。感性はまだ人間の方が上でありたい。
だが時代は人間知能から人工知能に移り変わる。我々の身近な生活がそうなりつつあるならば、2020年ごろを目指して、我々の職場も人工知能を取り入れた職場にすべきである。え?なにを?それを考えるのが人間様でしょ!そして人工知能に動かされるも人間様なのです!
あなたならどう考える?どの仕事を人工知能に判断させる?
それともあなたは人工知能に使われる人間様になるのか?
2016年07月03日
ひと昔までは製造業と言えば職人というのが当てはまった。しかし今では製造業で働くなり手も減少し、多くの会社は派遣社員の活用や機械化設備で生産する習わしになっている。
我々藤榮もここ十年でずいぶん機械化されてきたが、やはりお客様の特注品は機械化できないところにある。機械化できないというものは製品の寸法出しと、その寸法を細かく正確に加工するという技術力だ。これは職人技とは昔は言わなかったが、今では職人の部類に入ってしまうぐらい細かい仕事ができる層が少なくなりつつある。事務にしても昔そろばんをはじいていた時代から電卓に代わり今ではパッケージソフトが難なく働いてくれる。そこでの人間の仕事はデーター入力と紙処理だけである。工場もほとんどの物は機械が加工してくれる。のこの切れ味、穴の深さ、いや機械の具合、加工の具合を音で判断するというレベルの者は皆無になってしまった。
ではそれだけの者になるまで育てればいいじゃないかということになるが、これがまたむつかしい問題で、そもそもその技術を身に付けたいというものが現れてこない。また仮に社員が入ってきても、元々学校でのこ・カンナ・ノミと言った道具の扱い方を習ってきていないことや、製造には算数がついて回るという認識や、出来上がった商品に対する思い入れ、センスなどを磨くという意識がなかなかない。そして職人を育て上げるのには最低でも10年はかかってしまうという時間的問題もある。今時10年も同じ会社に居続ける者も珍しいし、また己の生活努力を先を夢見て生きるというものも少なくなっている。それだけ世の中、時間というものの観念が薄くなりつつあり、また、将来設計という考え方も薄れつつある。
その今の時代に製造業が生き残っていくには、根気を詰めて職人を育て上げるという考え方はもはや昭和の時代のものと言わざるを得ないのかもしれない。平成の者には「とにかく苦労せず、楽に、人並みで良いから生活できれば先のことまでは考えない方式」で行かなければ立ち行かなくなってしまったようだ。
この平成の時代に合わせる生産はやはり事務と同じようにパッケージ活用でなければなせないようだ。つまり加工されたパーツを仕入れ、それを組み立てることに専念する、という考え方だ。そうすれば今苦労して作業している加工という作業がずいぶんなくなる。作業がなくなれば教育もなくなり、人を採用するというわずらいも少なくなってくる。少なくなって仕事自体の範囲も狭くなっていく。利点である。しかし逆の欠点はその苦労が製造する利益の素なのである。苦労するから儲けさせてもらえる。楽すれば儲ける元が会社からなくなってしまう。いやそこには儲けるのは経営者と一部のリーダー層だけで、それ以外の者はただ単純作業を来る日も来る日も行って日々を生活するということになっていくであろう。というかそれが今の日本の実情であり、世界の常識なのであろう。と思うと昭和30年代生まれの者に通用してきた職人気質も、昭和40年代以降の生まれの者に要求する方が考え方、生き方を改めなければならないのであろうと、いまさらながらに身に染みてきた今である。
時は流れる。21世紀にあった生産方式に切り替える時なのかもしれない。そこに昭和の時代に有った「同じ釜の飯」「運命共同体」という感覚はなくなり、ただ殺伐とした人間関係いやそれすらも薄れ、時間になったから出勤、そして時間が来たから帰るという生活をすることを良しとし、達成感・失敗したことに対しての悔しさ、家に帰ってからの反省というものはものは、もはや要求することをしないようにする時代がやってきているのかもしれない。
いずれにしても平成の時代は昭和の者ではもはやコントロールできないところまで進化している。つまり昭和の者はもう平成の時代についていけなくなってしまったのであろう。
時代は戦後生まれの初代から昭和生まれの2代目を通り越し、もはや平成生まれの3代目の時代に突入しているのである。
2016年06月26日
自分にたいして持つ自信やプライドのことを心理学的に自尊感情と言います。そして自尊感情にも2種類があるといわれています。まず、問題1、2について答えみてください。
問題1 あなたは「いい人生」を歩んでいると思いますか?
「どちらかというとで」でいいので「はい」か「いいえ」で選んでください。
「はい」を選んだ人は、問題2に進んでください。
問題2 「はい」を選んだ理由はなぜですか?
もし問題1で「いいえ」を答えた人は自尊感情が低くなっているかもしれません。そして、自尊感情が低い人ほどうつ病になる可能性が高くなります。
問題2に進んだ人は、自尊感情は低くないですが「はい」を選んだ具体的な理由を答えた人は自尊感情の2種類のうち『条件付きの自尊感情』をもっている人になります。条件付きの自尊感情とは、「いい大学に受かったから自分はすごい人間なんだ」というように○○だから自分は素晴らしいと感じている人が当てはまります。この自尊感情しか持たない人は、どんな人でも成功続きではありませんので何かしらの失敗、例えば「就職活動が上手くいかなかった」などのことがあったときに自信を無くしてしまいやすく、うつ病になりやすくなります。さらに自尊感情が傷つくのを恐れて本当にしたいことをしなくなってしまうように守りに入ってしまう人もいます。
問題2で具体的な理由が答えられなかった人やなんとなくと答えた人は自尊感情のもう1種類の『真の自尊感情』を持っている人になります。真の自尊感情とは、○○だからというような条件に関係なく無条件で自分に価値を見出せる人となるので、多少の失敗があったとしても前向きに進むことができるのでストレスに強く、うつ病にもなりにくい人になります。
もし、真の自尊感情を持ちたいと思った場合は、失敗を恐れずにやりたいと思ったことをやってみることが重要になります。もちろん実際に行動してみて失敗することはあると思いますが、その時はやめておけば良かったと思うのではなくやりたいことをやったんだと自分を肯定してあげれば、自尊感情も強く、真の自尊感情になっていきます。また、ある心理実験でも「やってしまったことの後悔」よりも「やらなかった後悔」の方が、ずっと強く記憶に残るそうなので、とにかく行動することが大切なんだそうです。
福田
2016年06月19日
図書館に「司書」がいるように、博物館や美術館には「学芸員」という専門的な職員がいます。
多くの人は「学芸員って何?」「どんな仕事をしているの?」と疑問に思うと思います。確かに「学芸員」という職業は知名度が低く、一般的にあまり知られていません。
では「学芸員」とは何なのか?「学芸員」とは簡単に言ってしまえば博物館や美術館の展示物を製作・展示し、保管・研究をしている人達の事です。よく、博物館や美術館で展示室の前に座っていたりしている人たちを目にすると思いますが、あの方たちは大抵学芸員補か事務員の方で、通常学芸員は表舞台には出て来ません。主に裏方の仕事になります。博物館や美術館にある展示物を表舞台に立つ「役者」と捉えるならば、学芸員はそれを支える、または舞台を作る「スタッフ」と言えます。博物館や美術館に展示されている展示物は、その建物のテーマに合わせて学芸員がセレクトした物ですし、特別展示となると、それは学芸員の研究の成果を発表する場にもなるのです。
特別展とは、期間限定で行われる展示会のことなのですが、これを企画するのも学芸員の仕事になります。先ほども述べたように、特別展は学芸員にとって研究の成果を発表する場でもあります。特別展を計画するのはおよそ一年前かららしいのですが、そのテーマを研究する学芸員が中心となって特別展の企画を進めていくのです。展示物のすぐ側にある長い説明文のフリップを作成しているのも学芸員です。常設展でも同じことが言えます。特に特別展では、学芸員が色々工夫を凝らして展示空間を作っているので、長くて見るのが億劫になってしまう説明文も、少し立ち止まって読んでみると、学芸員の思いが伝わってくるかもしれません。そもそも、説明文と展示物は二つでセットなので、学芸員は観覧客がどういうルートで回ってみるのかを想定して、説明文と展示物を配置しています。展示物だけではなく、説明文やその配置にも、学芸員のこだわりが垣間見えるというわけです。
博物館・美術館には必ず学芸員を置くということが法律で決まっています。ここが「司書」との大きな違いですが、どちらも資格が必要な職業なので、資格がとれる大学に行くか、独自に専門知識を学ぶ必要があります。また、学芸員には「博物館実習」があり、これも資格を取る上で必須事項となってきます。
ここまで学芸員の仕事について触れてきましたが、博物館や美術館が生涯学習の施設であるように、学芸員もまた生涯学習の教育者という立場を担っています。学芸員は博物館や美術館に来る学習者のサポートをしなくてはいけないのです。ただ展示会を開く、展示物を紹介するだけではなく、学習者に対してより詳しく展示物の解説をしたり、学習者が学ぶ場を提供することも教育者の役割となってきます。
学芸員は知名度こそ低いですが、博物館や美術館になくてはならない存在です。また、生涯学習という点においても重要になってきます。地域よっては博物館・美術館を生涯学習の場として活用することで、地域の活性化を計っている所もあります。教育の面においても、学芸員は重要な役割を背負っているのです。いかに生涯学習支援の活動に関わっていくか、学芸員という立場からできることを模索していかなくてはいけません。それには、やはり地域との繋がりが大切になってくるし、学芸員そのものの資質も問われてくるのではないかと思います。
2016年06月10日
そこには詳しく「まだ年が若いのに、目に光なく、何とはなしに生きているような人がいる。他方、年老いてなお意気盛んで、はつらつと活動を続けている人もいる。青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ勇気にみちて日に新たな活動をつづけるかぎり、青春は永遠にその人のものである」とある。
さてこれをもう一度年齢別で考え直してみよう。
10代は学生である。ほぼ知育か体育で明け暮れる。
20代は社会に飛び出し職場で作業を覚えながら、人生目標を作る。
30代は所帯を持ち子を産み育てる楽しさ、大変さを味わう。
40代は社会人として一人前となり、後輩を教える責任と、子供を中学・高校へと行かせながら自分の将来よりも子供の将来に力が入ってくる。
50代は社会人として覚えることがずいぶんなくなり、また一部に役職から外れ、後輩も与えられなくなり、社会的責任も薄くなってくる。また子供も最終学歴を終え社会人として旅たち、家庭での子育てという役割も薄くなった来る。
60代で定年を迎え、いよいよ社会から必要とされなくなり、また子供たちも独立し、自らの心と体の行き場が薄れてくる。
このときに「青春とは心の若さである」という言葉を思い起こし、はたして年老いてなお意気盛んで、はつらつと活動を続ける目標がその時にあるだろうか?このとき私は青春ですと答えられる人ほど人間として素晴らしい人はいないだろう。それは金銭的にまた健康的にも青春だといえるからである。お金がなければはつらつした生活は送れない。健康でなくては気力もわいてこない。だから60代の青春はほとんどの人が味わえないものだと思う。それだからこそ挑戦する意義があるのかもしれない。
庭いじり?庭のない人もいる。旅行?毎月出かけるお金などない。孫の世話。都合のいいときなどそんなにないし、世話というものはあんがい大変である。またそれはあくまで親代わりで青春といえる行動のものではない。絵描き・物書きはどうか?それも趣味としていいだろう。ということは趣味を青春としろということか?趣味が燃え上がる物足りうるのだろうか?「青春とは人様の役に立つ状態では」と私は考えるがいかがなものであろうか?と考えれば日々のつらいこと そうストレスや肉体的悲鳴もそれ自身が青春ではないだろうか?苦しみもがいている反面それは社会として何かしらまだ役に立っている、社会の一員でいられるという実感なのである。社会の一員という枠を取られたら、はつらつなどなくなる。あるのは空虚感・虚脱感・孤独感である。そして死への旅たちか?生きる目的が死へ向かって歩くことになっていく。
だから社会人でいられることを喜びだと考えよう。「今日会社で叱られた」「失敗した」「ストレスたまった」なんて小さいことはなんとか自分で解消してみよう。それこそが青春なのである。生きているあかしなのである。
2016年06月03日
この間ある人との会話の中で「内の部下は私がやれば1時間で終わることを2時間かかってやっている。しかも質が私よりも落ちる。仕事の勘所というか手を入れるところと、手を抜いてもいいところがわからないのだよ」と言っていた。
次に出てきたのが「最近仕事が少なくてお客様になってもらえそうなところに出向いて話をしている。特別ご注文を取りに行っているわけでは無いが、もしもの時の手を打っているよ」ということだった。
そこで聞いてみた「そのあてになりそうなお客様で、ご注文をもらえたところはありますか」と。すると「もらえたはもらえたがそのお客様も代替わりが始まっていて、以前はよく買ってもらえたのだが若社長になったらあまり用事がないといわれ、もらえたご注文も微々たるもんだった」と返答だった。
それから次に出てきたのが「募集しているのだがなかなか人が来てくれない。また、たまたま来てくれても続かないんだよ」と。考えていることがいろいろありお仕事が大変な様子であった。
自分でやれば仕事は早く正確である。部下がやれば遅くて質が落ちる。これは当たり前のことである。そこで聞いてみた。仮に部下が「言われたことができたらあなたと同じ給料くれますかと聞いてきたら出せますか」と。すると「それは出せんわ」たった。効率を求めるためレベルを上げてほしいと考えるのはわかるが、レベルを求めれば対価も求められるという理屈がわからないのである。
はたまた「暇ならとにかく営業をかけれるだけかけてご注文をめいいっぱい取ってみたらと」聞いてみると「もしやりこなせなくてお客様に迷惑がかかりせっかくのお客様を失うのも嫌だ」と言っていた。
募集にしても「募集するのは何のためですか。人が入ると人件費がかかり、ますます仕事を獲得しなければならないが、教える仕組みと支払う給料原資はあるのですか」と聞くと、それもうやむやなのである。
そこでもう一つ聞いてみた「いろいろと考えているようですが本当の今の課題は何ですか」と。すると結論「わからない」だった。
人間どうしても問題を他に見つけようとする。しかし本当の問題は自分にあるような気がする。自分の目標が定まっていない。仮に定まっていても実行に移すことができない。実行に移しても自分が悪いわけでなく他人のせいにして、結局うやむやになって終わる。
これは自分にも言えることだがやはりまず自らを振り返ることが先であろう。自分に部下があれば当然面倒見なくてはいけない。しかしその前に自分は大丈夫かを常に問いかけていないと。そうでないと自分はできなくていいからお前はできろと言いかけたり、自分と同じことができるようになれば自分の立場はそのうち必要なくなるということになっていく。当たり前のことである。
2016年05月29日
5月はGWで始まった。例年GWは出かけることにしているが年齢が行ってくると徐々に混むときに出かける気が薄れてくる。長いお休みの時こそゆっくり休んでいたくなってきた。
そのGWが終わると本格的に来年度入社の学生さんとの面談が始まった。例年ならば初回面談時に我々から学生さんへの選好をしていたが、今年からは初回は学生さんから選考してもらうように変更し、選考のあった学生さんのみを2次に進めるように変更した。そして2次面談では適性検査と簡単な質問を交えながら学生さんとのコミュニケーションをしっかり行い、適性検査の結果、我々の会社にぜひ入社してもらいたい方には3次面談に移るという具合にした。
例年ならば面接官の私的感情で決めていたが今年からはそれが防げるようになってきた。私的感情は悪くはない。採用した本人がこの人となら一緒にやれると思って採用するのだからだ。しかし人間話だけでは分からない。実際に仕事してみて初めて適性がわかる。例年適性が間違っていたというときもある。それがわかったとき会社側もまた入社した側も後悔することになるのである。どちらも「こんなはずではなかった」となる。だから今年からは私的感情を除いてお互いに判断するように努めている。
さて今週から6月が始まる。6月1日には早速内々定の打診。そして入社前研修も始まる。それは今の流行が「即戦力」という言葉だからだ。即戦力というものは会社からは入社前に学生さんが働きやすい環境を整え、又あらかじめ基礎知識教育をしておきなさいという意味と、学生さん側からは内々定後は学生気分から社会人気分に早めに切り替えて、社会人としての予行演習に入りなさいという意味であろう。そこでアルバイト形式で早めに職場に入ってもらい社会の雰囲気に慣れてもらおうという具合に進んでいく。
いずれにしても今年入社した新入社員が6月から本格的に社会人の役割を果たしてもらう予定でいながらすでに来年入社組の予行演習に入っていくのだから、会社としても気が抜けない日々が続いているわけとなる。社員の中には会社の方針がころころ変わるというものもいるが、、ころころ変わるのではなく当たり前の出来事が当たり前にとらえられないのでころころ変わると取ってしまうのであろう。しかし新入社員とくに最近入社した3期生あたりまでは職場に変化があることが当たり前のように育てているから、ころころ変わるということが当たり前になりつつあるだろう。変わって当たり前なのである。変わらなければ時代に置いてきぼりを食う。現代は立ち止まって考える暇がない。だからGWなど長いお休みの時こそゆっくり落ち着いて今を見つめなおし、リラックスして明日を考える時間にしなければならないと思う。通常の時はなかなか自分を振り返っている余裕がない。それだけスケジュールがあり、予期せぬことが起こってくるのである。まあ言えることはお互いいずれ走れなくなる時が来る。走りたくても世の中が必要としなくなる時が来る。今は後悔しないように、やれるときは思いっきり走り続けるしかない。
2016年05月22日
ダニング・クルーガー効果とはコーネル大学の心理学者ダニングと教え子のジャスティン・クルーガーが発表した効果で「無知な人ほど自分の無知を認識できずそのため自信満々に振る舞う」と言うものです。言い方を変えると馬鹿ほど自信にあふれているということになります。これだけを聞くと恥ずかしい人だと思うかもしれませんが、その自信自体は決して悪い事ではない場合もあります。
例えばあなたが何か新しい事を始めようとした時に何よりも先に多くの知識を入れたがることはありませんか。そういった人の中には学べば学ぶほど「自分の考え方が甘かった」「この程度のレベルでは成功なんてしない」と言うように新しく始めるための準備によって逆に行動するパワーを失ってしまった経験があるかもしれません。もちろん知識はないよりもあった方が良いに決まっています。しかし、行動する前にまず知識をと考えることが行動に移せない原因になることがあります。実際に、世の中の成功者が万全の状態でスタートしたわけではなく、始める前は甘く考えて行動し、行動に移してから大変さを知ったという人もいます。そういった人たちがもし行動を移す前に大変さを知っていたら実際に行動に移せていなかったかもしれません。
実際の例として、「小説家になりたい。そのために小説の書き方講座に通っている」ということがあったそうです。小説家になりたいというのは、つまり書きたいことや表現したいことがあるから小説家を目指すのではと思われます。なので、まず先にそれを形にすることが大切なんだと思われます。ですが、小説家の書き方講座に通うというのは自分の考えを形にすることよりも、上手く文章を書きたい、恥ずかしい文章を書きたくないという思いの表れなのではないでしょうか。実際に小説家を目指したその人は講座が終わるまで作品を作る事がなかったそうです。その後も下手な文章を書いて恥をかきたくないという無意識な恐れからいつまでたっても小説を書き上げる事はなかったそうです。なので、恥をかいてもどんな評価を受けたとしてもとにかくまず始めに作品を完成させ、発表してみる事が今回の話で必要だったのではないかと思います。
勉強などは始めてから並行して行うことができるので、「とにかく何かをする前には知識や勉強を」「万全の準備をしてから始めよう」と考えず、まず行動をしてみることが大切なんだと思います。そしてダニング・クルーガー効果に陥らないために常に学ぶ姿勢を持ち、一般人である自分たちの知識はネットや本から得た物なので偏った知識になってしまうことを理解する事で、自分の無知を正確に認識し、根拠のない自信を裏付けされた本物の自信に変えていくことが大切になります。
福田
2016年05月15日
生涯学習にとって、図書館は欠かせない施設です。美術館や博物館も学習の場として活用できますが、やはり図書館が一番身近な学習施設になるのではないでしょうか。
図書館では、本の貸し借りが主な業務になります。そして、その業務を遂行するに当たって、「司書」という人がとても重要な人物になってきます。
学校や、公共の図書館には、必ず「司書」がいます。この人に聞けば、探している本が図書館のどこにあるのかすぐに分かります。「司書」は国家試験がある専門職ですが、図書館に就職する時必ずしも資格が必要なわけではありません。資格がなくても就職できるので、図書館に勤務している人を総称して「司書」と呼ぶ場合もあるそうです。
この「司書」になるためには毎年7~9月にかけて全国14大学程度で実施される司書講習を修了するほか、大学・短大で司書資格取得に必要な単位を履修するなどして取得します。
その学習内容に「生涯学習」の内容が関わってきます。図書館を利用する人を「学習者」として捉え、司書はその人たちに情報を提供する。しかし近年では情報のデータ化が普及したおかげで、パソコンに書名や作者を入力すれば簡単に検索できるようになりました。また、図書館同士のネットワークも拡大され、その図書館にない本を、他の図書館から取り寄せたり、データを閲覧出来たりするようになりました。
利用者が「学習者」として図書館を利用する目的は様々ですが、一番は彼らの為に資料を買い集め、情報を提供してあげることです。また、司書は「学習者」が探し求めている情報を整理して、その人に合った資料を提供しなければいけません。「調べたい項目は決まっているが、何から探していいのか分からない」、「一つの分野についてより深い情報が欲しい」等、利用者の考えていることは一概ではありません。だから司書は全ての分野について精通していなければならないし、知識を蓄えておかなければならないのです。
司書の仕事はこれら以外にもまだまだありますが、司書にとって「生涯学習論」は「図書館学」と次に大切な事柄になってきます。それは、「生涯学習者」一人一人の要望に応え、図書館を生涯学習施設として地域に根差していく役割の一端を担っているからです。ただカウンターでじっとしているだけではないということです。裏で図書館資料の選択、発注及び受け入れから、分類、目録作成、貸出業務を行っているのです。このような所は、博物館にいる「学芸員」と似通っている所があります。
図書館は本の貸し借りだけを行っている訳ではありません。読書会や、展示会等を行っている図書館も多いと思います。このような活動でも、「生涯学習」として活用はできますし、気になったことはすぐ調べることができます。情報発信の場として、図書館はこれからもデジタル化、データ化を得て拡大していくと思われます。そのとき、利用者の相談や、アドバイスをするのは、機械ではできません。同じ人でなければせきないのです。その為にも、「司書」という職業は図書館にいるのです。
岡田