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第101回 企業の維持の中で

2016年08月03日

企業が維持できる仕組みにのっかてきた連中、そしてそこに胡坐をかくようになってきた連中に、創業者の苦労、そしてその土台から飛躍してきた大変さがわからない。だから彼らは自分がさも会社の切り盛りがやれるような気になってくる。
いや会社に来て決められたことを日々行えば生活できるようになってしまった今、明日の成長はむつかしいと危機感を感じる。
この危機感から新たな成長する環境を作るには、今の環境をご和算にした方がよい。
現実には創業時代に戻れないが、元に戻る意気込みを持たないと、ますます環境はだらけ、出社することで給料がもらえるようになる。もちろんしばらくは今までの仕組みで会社というものは維持できるが、そこにはもはや創業者が考えた企業文化は薄れている。
また今維持できるのは過去頑張って改革してきたからである。その改革を止めて維持だけにいや、エゴやガンバリズムだけで会社が成長するなどとは思えない。そんな簡単なら誰でも創業し、ありとあらゆる人が社長になる。しかしそんなものではない。創業も大変だが繰り返し繰り返しお客様に商品を買っていただき、飽きられないように新商品を提供し続け、その時代時代の環境に適応出き、社員全員がそれなりの生活ができることこそ、会社を運営しているといえる。
今の環境ならば、いっそのこと外注と派遣を活用するのも手である。

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第100回 運で生きていないか?

2016年07月26日

「運」と言うものは「感」から発生すると私は思う。つまりある物事の判断に出くわした。右に行くか、はたまた左に行くか。そこで「感」に頼って右にした。結論まことにハッピーになった。なぜならそこには先輩が既に成功を収めていて、そのやり方を学ぶことによって自分も成功をつかんだからだ。これはまさに「感」から来た「運」の良さだ。 「運」と言うものは引き寄せられることもある。そこで自分の実力がなくても自然にそうなってしまったことにより実力以上のことが起こり得ることもある。そこで身の程を知ればよいのだがここで「感」違いを起こし、「俺はできるんだ」と思いこんでいろいろやってしまう。するとやはり実力がなかったので見事に裏にはまる。まだその人独りの場合は被害がないが、そこに仲間がいたらえらいことになる。仲間も引き寄せられてしまうのだ。 私などいい例だ。私は自分を「感だけで生きてきた男」と家族に常々話している。実力も無く、のこのこと54年間も、よくぞここまで生きてこられたと思いますよ。「感」に引き寄せられて「運」があまりにもよかったのであろう。 運を時代の波に乗せて生きる為には「感」をみがけ!「感」を磨くにはやはり勉強しかない。「現代の起こっている情報を集める」「なぜそうなりつつあるのか調べる」「過去の歴史で参考になる物はないか探す」「先輩の過去の結果を自分に当てはめた時、自分は明日からどう考え方を変化しなければならないのか決める」「明日から全く違う自分を生きる」→結論を冷静に見る 結論が良ければ「運」が良かったのだ。それは「感」が良かったのだ。  この「運」と「感」の関係に隠れているものは「願望」と「努力」である。人間まず「願望」があるかないかだ。「願望」=「欲求」が髙い者ほど「努力」=「行動力」を持たなければならない。「願望」は「信念」に後付けされ「結果」として現れる。現れるまで失敗してもあきらめない。「誰かがやれたことだ、俺にもできる」とはなから決めつけてやってしまうことだ。そしてやってしまったら当たり前の顔して次の願望に向かうことだ。兎に角やった者のみが何もかも勝ち取ることができる。

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第99回 セルフ・ハンディキャッピング

2016年07月24日

セルフ・ハンディキャッピングとは自分にとって不利なことをわざわざ行ったり行動したりすることを指します。例えとしては「私、バカだから」と言う人などがこれに当たります。

セルフ・ハンディギャップについて心理学者のバーグラスがある実験を行いました。実験対象者に難しい課題を解いてもらうことを伝えました。その後、問題を解く前にAとBのどちらかの薬を飲んでもらいました。AとBの薬は、Aが「一時的に能力を高くする薬」で、Bは「一時的に能力を低くする薬」だと実験対象者に伝えました。もちろんAとBの薬はただの水なので能力を上げ下げすることはできません。この実験で課題を解くのに自信がない人ほどBの能力を低くする薬を選ぶことが多かったそうです。

Bの薬を選ぶ人が多かった理由は、失敗しても薬のせいにできるからです。つまりセルフ・ハンディキャッピングとはダメだったときの言い訳を作ることのことを指します。さらにBの薬を飲む人が多かった理由としてはどちらにしても得だからというのもあります。今回の実験でいえば、課題が解けなかった場合では、「薬のせいで能力が下がったからできなかったんだ」という言い訳ができます。課題が解けた場合では、「薬のせいで能力が下がっているのに課題が解けたよ。自分ってすごいんだ」というように成功の価値を高めることができるので、自分を低くすることで成功しても失敗しても得な結果になるようにできるからです。

しかし、多くの調査でセルフ・ハンディキャッピングをする人はしていない人と比較して成功の確率が下がってしまったという報告があります。これは「どうせ言い訳ができるから負けても大丈夫」という思いから必死さがなくなってしまったのが原因だと考えられています。つまり、セルフ・ハンディキャッピングをするということはどのような結果になっても得をするのではなく、成功する確率を下げてしまっているだけということになります。もし自分が本当に成功したいと思うなら、大切なことは「過去に受けた仕打ちのせいで」「あの人のせいで私はダメなんだ」「自分は頭がよくないし」などと言うような自分自身を下げる評価や自分の過去や生活環境を言い訳にすることで逃げ道を作ってしまい、気持ちまでどんどん逃げ出そうとするのを防ぐために言い訳をするのを少しだけでもやめてみてどんなことでも構わないので全力で取り組んでみることが大切になります。

福田

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第98回 子供の教育と生涯学習

2016年07月17日

生涯学習の基盤となるのは、小・中学校における義務教育です。また、学校での学習の他に家庭学習も大事な基盤と言えます。

つまり、生涯学習は子供たちの学習にも関与しているということです。ではどのような形で学習の手伝いをしているのでしょうか?

図書館や博物館といった施設は、大人の見識を広げるにも良い施設ですが、小学校や中学校と連携して子供たちの学習の手伝いをしています。

学年単位で博物館や美術館を授業の一環として見に行ったり、校内以外に図書館があれば、休日や夏休みなどに調べ物ができます。それ以外に、子供向けのイベントを期間限定でしたりと、机に座って行う学習だけでなく、実際に体験して学ぶというスタイルもあります。

最近は小学生のうちからスマートフォンを持つという事もあり、読書をする子供は段々減少しています。現在は図書館も進化しており、本を読む場所だけでなく、CDやDVDといった資料も閲覧や貸し出しができたりします。また、美術館や博物館も”体験型アート”として実際に触れたりできる物が増えてきています。親子で体験できるものもあるので、一度行ってみると親子ともに何か感じるものがあるかもしれません。

また、学校教育以外に家庭学習の面でも生涯学習施設は役に立っているのです。地域や学校と連携して、子供の生活習慣や育児・子育てについて地域の施設で学べる環境を作ることも、生涯学習の役割の中に入ってきます。その他に、市の施設で体験学習をしたり、申し込めば野外キャンプや自然と触れ合えることのできる体験もできます。確かに勉強することも大切ですが、子供の感性を育てる面としても、このような活動を地域ぐるみですることには大きな意味があると思います。

生涯学習は成人した人たちが学習するという事だけでなく、子供たちの学習にも影響を及ぼしています。それは、算数や国語といった成績が評価されるものではなくて、外に出て学ぶことを意味しています。そして子供たちが自ら学び、行動していくには、大人の助けが必要となってきます。この時、生涯学習に意欲的に取り組んでいる地域は、地域の人々と市の結びつきが強いので、より学習の場が広がるのです。学習の場が広がれば、色々な体験ができます。現代はスマートフォンがあれば家でもSNSで他人とつながることができ、ゲームをしていれば家の中だけで済んでしまう時代です。だからこそ、このような地域の繋がりが大切になってくるのだと思います。そこには、子供たちだけでなく、大人も積極的に関わっていくことが重要なのです。

岡田

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第97回 自分の話の内容はいつの話題か?

2016年07月07日

自分自身を冷静に見つめてみよう。自分が会話している題材内容は時間軸で言うといつの話をしているか?たとえばサザエさんに出てくる井戸端会議の内容は「過去」の話題である。TVの品評も「過去」のことである

子供の成績も「過去」である。今度〇〇でテートしようは「未来」である。

今日の予定は、も「未来」「盆明けからあなたにはこういう仕事をお願いします。これも「未来」。私は1年後に△△という目標を達成します。「未来」

さて?あなたの毎日の頭脳は時間軸で言うとどちらのことを主に考えていますか?よくある話。たとえば定年離脱した年齢層と会話するとほとんど「過去はこうだった、あの時はああだった」ということばかり。「これからこうなる。それは具体的にこう考えるからだ」とか、「今こういう新しいことに取り組んでいるがあなたはどう思うか?」という将来像について語る人は少ない。いやもっと言うと「最近体の具合が悪くて……、この間となりの人がなくなったよ……、同窓会に行ったら6人ほどかけていたよ」と言うことに頭が働いていてと言うかその程度しか話す内容がなくて、頭脳自体が劣化していっているのではないでしょうか?

いや社会にリタイヤした人々ならそれでも良い。徒然草の世界でいいのである。しかし現役者、しかも明日の日本国を背負って立つ若者はこれではいけない。常に時間軸は「未来」でなければ!

藤榮は会議を重要視しないがそれは過去を区切って振り返ってみてもしょせん「過去」だからである。どうせなら起こったその日に、と言うよりも目標とのずれを反省しずれを修正するコントロールを目指すべきである。

受動的であるのが会議形式、片や目標をかかげ、それに到達するために自己啓発し、学んだ知識を実践し、失敗を自ら反省し、目標に近づけていく能動的生き方を行うべきである。

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第96回 人口知能とは?

2016年07月07日

昨日の雑誌に自動車の自動運転が2016年から始まりそうだと出ていた。一番早いのがスバルその次が日産だそうで、まずは高速道路から始まるそうだ。360度車にカメラが設置され、起こりうるべき事態をすべてコンピューターに入力しておき、それぞれの対処法を自動で取るというシステムである。囲碁将棋の対戦と同じである。

しかし私は思う。人工頭脳はあらゆる角度で経験された知識をインプットされ、それぞれ起きたことに素早く対応してくれるが、未来時間軸に対して目標を持ったり、また火事場のバカ力も出ないし、組織の力も要求できない。組織の力とは集団心理、つまり宗教みたいな力=ある意味暴走である力。しかし、いかに人工知能に打ち勝つか?皆さん考えたことありますか?私は頭が悪いからそういうくだらないことばかり考えて生きている。

相手が機械だろうが負けたくない。と言うより違うレベルで生きていきたい。その生きる考えの中で、新しい未来を見つけ出していきたい。

人工知能など所詮人間の経験の集大である。予期せぬことを行っていく者が知識人であり、クリエイティブな世界なのである。感性はまだ人間の方が上でありたい。

だが時代は人間知能から人工知能に移り変わる。我々の身近な生活がそうなりつつあるならば、2020年ごろを目指して、我々の職場も人工知能を取り入れた職場にすべきである。え?なにを?それを考えるのが人間様でしょ!そして人工知能に動かされるも人間様なのです!

 あなたならどう考える?どの仕事を人工知能に判断させる?

 それともあなたは人工知能に使われる人間様になるのか?

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第95回 昭和と平成の技術力違い

2016年07月03日

ひと昔までは製造業と言えば職人というのが当てはまった。しかし今では製造業で働くなり手も減少し、多くの会社は派遣社員の活用や機械化設備で生産する習わしになっている。
我々藤榮もここ十年でずいぶん機械化されてきたが、やはりお客様の特注品は機械化できないところにある。機械化できないというものは製品の寸法出しと、その寸法を細かく正確に加工するという技術力だ。これは職人技とは昔は言わなかったが、今では職人の部類に入ってしまうぐらい細かい仕事ができる層が少なくなりつつある。事務にしても昔そろばんをはじいていた時代から電卓に代わり今ではパッケージソフトが難なく働いてくれる。そこでの人間の仕事はデーター入力と紙処理だけである。工場もほとんどの物は機械が加工してくれる。のこの切れ味、穴の深さ、いや機械の具合、加工の具合を音で判断するというレベルの者は皆無になってしまった。
ではそれだけの者になるまで育てればいいじゃないかということになるが、これがまたむつかしい問題で、そもそもその技術を身に付けたいというものが現れてこない。また仮に社員が入ってきても、元々学校でのこ・カンナ・ノミと言った道具の扱い方を習ってきていないことや、製造には算数がついて回るという認識や、出来上がった商品に対する思い入れ、センスなどを磨くという意識がなかなかない。そして職人を育て上げるのには最低でも10年はかかってしまうという時間的問題もある。今時10年も同じ会社に居続ける者も珍しいし、また己の生活努力を先を夢見て生きるというものも少なくなっている。それだけ世の中、時間というものの観念が薄くなりつつあり、また、将来設計という考え方も薄れつつある。
その今の時代に製造業が生き残っていくには、根気を詰めて職人を育て上げるという考え方はもはや昭和の時代のものと言わざるを得ないのかもしれない。平成の者には「とにかく苦労せず、楽に、人並みで良いから生活できれば先のことまでは考えない方式」で行かなければ立ち行かなくなってしまったようだ。
この平成の時代に合わせる生産はやはり事務と同じようにパッケージ活用でなければなせないようだ。つまり加工されたパーツを仕入れ、それを組み立てることに専念する、という考え方だ。そうすれば今苦労して作業している加工という作業がずいぶんなくなる。作業がなくなれば教育もなくなり、人を採用するというわずらいも少なくなってくる。少なくなって仕事自体の範囲も狭くなっていく。利点である。しかし逆の欠点はその苦労が製造する利益の素なのである。苦労するから儲けさせてもらえる。楽すれば儲ける元が会社からなくなってしまう。いやそこには儲けるのは経営者と一部のリーダー層だけで、それ以外の者はただ単純作業を来る日も来る日も行って日々を生活するということになっていくであろう。というかそれが今の日本の実情であり、世界の常識なのであろう。と思うと昭和30年代生まれの者に通用してきた職人気質も、昭和40年代以降の生まれの者に要求する方が考え方、生き方を改めなければならないのであろうと、いまさらながらに身に染みてきた今である。
時は流れる。21世紀にあった生産方式に切り替える時なのかもしれない。そこに昭和の時代に有った「同じ釜の飯」「運命共同体」という感覚はなくなり、ただ殺伐とした人間関係いやそれすらも薄れ、時間になったから出勤、そして時間が来たから帰るという生活をすることを良しとし、達成感・失敗したことに対しての悔しさ、家に帰ってからの反省というものはものは、もはや要求することをしないようにする時代がやってきているのかもしれない。
いずれにしても平成の時代は昭和の者ではもはやコントロールできないところまで進化している。つまり昭和の者はもう平成の時代についていけなくなってしまったのであろう。
時代は戦後生まれの初代から昭和生まれの2代目を通り越し、もはや平成生まれの3代目の時代に突入しているのである。

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第94回 自尊感情

2016年06月26日

自分にたいして持つ自信やプライドのことを心理学的に自尊感情と言います。そして自尊感情にも2種類があるといわれています。まず、問題1、2について答えみてください。

問題1 あなたは「いい人生」を歩んでいると思いますか?

「どちらかというとで」でいいので「はい」か「いいえ」で選んでください。

「はい」を選んだ人は、問題2に進んでください。

問題2 「はい」を選んだ理由はなぜですか?

もし問題1で「いいえ」を答えた人は自尊感情が低くなっているかもしれません。そして、自尊感情が低い人ほどうつ病になる可能性が高くなります。

問題2に進んだ人は、自尊感情は低くないですが「はい」を選んだ具体的な理由を答えた人は自尊感情の2種類のうち『条件付きの自尊感情』をもっている人になります。条件付きの自尊感情とは、「いい大学に受かったから自分はすごい人間なんだ」というように○○だから自分は素晴らしいと感じている人が当てはまります。この自尊感情しか持たない人は、どんな人でも成功続きではありませんので何かしらの失敗、例えば「就職活動が上手くいかなかった」などのことがあったときに自信を無くしてしまいやすく、うつ病になりやすくなります。さらに自尊感情が傷つくのを恐れて本当にしたいことをしなくなってしまうように守りに入ってしまう人もいます。

問題2で具体的な理由が答えられなかった人やなんとなくと答えた人は自尊感情のもう1種類の『真の自尊感情』を持っている人になります。真の自尊感情とは、○○だからというような条件に関係なく無条件で自分に価値を見出せる人となるので、多少の失敗があったとしても前向きに進むことができるのでストレスに強く、うつ病にもなりにくい人になります。

もし、真の自尊感情を持ちたいと思った場合は、失敗を恐れずにやりたいと思ったことをやってみることが重要になります。もちろん実際に行動してみて失敗することはあると思いますが、その時はやめておけば良かったと思うのではなくやりたいことをやったんだと自分を肯定してあげれば、自尊感情も強く、真の自尊感情になっていきます。また、ある心理実験でも「やってしまったことの後悔」よりも「やらなかった後悔」の方が、ずっと強く記憶に残るそうなので、とにかく行動することが大切なんだそうです。

福田

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第93回 「学芸員」の役割

2016年06月19日

図書館に「司書」がいるように、博物館や美術館には「学芸員」という専門的な職員がいます。

多くの人は「学芸員って何?」「どんな仕事をしているの?」と疑問に思うと思います。確かに「学芸員」という職業は知名度が低く、一般的にあまり知られていません。

では「学芸員」とは何なのか?「学芸員」とは簡単に言ってしまえば博物館や美術館の展示物を製作・展示し、保管・研究をしている人達の事です。よく、博物館や美術館で展示室の前に座っていたりしている人たちを目にすると思いますが、あの方たちは大抵学芸員補か事務員の方で、通常学芸員は表舞台には出て来ません。主に裏方の仕事になります。博物館や美術館にある展示物を表舞台に立つ「役者」と捉えるならば、学芸員はそれを支える、または舞台を作る「スタッフ」と言えます。博物館や美術館に展示されている展示物は、その建物のテーマに合わせて学芸員がセレクトした物ですし、特別展示となると、それは学芸員の研究の成果を発表する場にもなるのです。

特別展とは、期間限定で行われる展示会のことなのですが、これを企画するのも学芸員の仕事になります。先ほども述べたように、特別展は学芸員にとって研究の成果を発表する場でもあります。特別展を計画するのはおよそ一年前かららしいのですが、そのテーマを研究する学芸員が中心となって特別展の企画を進めていくのです。展示物のすぐ側にある長い説明文のフリップを作成しているのも学芸員です。常設展でも同じことが言えます。特に特別展では、学芸員が色々工夫を凝らして展示空間を作っているので、長くて見るのが億劫になってしまう説明文も、少し立ち止まって読んでみると、学芸員の思いが伝わってくるかもしれません。そもそも、説明文と展示物は二つでセットなので、学芸員は観覧客がどういうルートで回ってみるのかを想定して、説明文と展示物を配置しています。展示物だけではなく、説明文やその配置にも、学芸員のこだわりが垣間見えるというわけです。

 

博物館・美術館には必ず学芸員を置くということが法律で決まっています。ここが「司書」との大きな違いですが、どちらも資格が必要な職業なので、資格がとれる大学に行くか、独自に専門知識を学ぶ必要があります。また、学芸員には「博物館実習」があり、これも資格を取る上で必須事項となってきます。

ここまで学芸員の仕事について触れてきましたが、博物館や美術館が生涯学習の施設であるように、学芸員もまた生涯学習の教育者という立場を担っています。学芸員は博物館や美術館に来る学習者のサポートをしなくてはいけないのです。ただ展示会を開く、展示物を紹介するだけではなく、学習者に対してより詳しく展示物の解説をしたり、学習者が学ぶ場を提供することも教育者の役割となってきます。

学芸員は知名度こそ低いですが、博物館や美術館になくてはならない存在です。また、生涯学習という点においても重要になってきます。地域よっては博物館・美術館を生涯学習の場として活用することで、地域の活性化を計っている所もあります。教育の面においても、学芸員は重要な役割を背負っているのです。いかに生涯学習支援の活動に関わっていくか、学芸員という立場からできることを模索していかなくてはいけません。それには、やはり地域との繋がりが大切になってくるし、学芸員そのものの資質も問われてくるのではないかと思います。

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第92回 PHP研修に「青春とは心の若さである」とあった

2016年06月10日

そこには詳しく「まだ年が若いのに、目に光なく、何とはなしに生きているような人がいる。他方、年老いてなお意気盛んで、はつらつと活動を続けている人もいる。青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ勇気にみちて日に新たな活動をつづけるかぎり、青春は永遠にその人のものである」とある。

さてこれをもう一度年齢別で考え直してみよう。
10代は学生である。ほぼ知育か体育で明け暮れる。
20代は社会に飛び出し職場で作業を覚えながら、人生目標を作る。
30代は所帯を持ち子を産み育てる楽しさ、大変さを味わう。
40代は社会人として一人前となり、後輩を教える責任と、子供を中学・高校へと行かせながら自分の将来よりも子供の将来に力が入ってくる。
50代は社会人として覚えることがずいぶんなくなり、また一部に役職から外れ、後輩も与えられなくなり、社会的責任も薄くなってくる。また子供も最終学歴を終え社会人として旅たち、家庭での子育てという役割も薄くなった来る。
60代で定年を迎え、いよいよ社会から必要とされなくなり、また子供たちも独立し、自らの心と体の行き場が薄れてくる。
このときに「青春とは心の若さである」という言葉を思い起こし、はたして年老いてなお意気盛んで、はつらつと活動を続ける目標がその時にあるだろうか?このとき私は青春ですと答えられる人ほど人間として素晴らしい人はいないだろう。それは金銭的にまた健康的にも青春だといえるからである。お金がなければはつらつした生活は送れない。健康でなくては気力もわいてこない。だから60代の青春はほとんどの人が味わえないものだと思う。それだからこそ挑戦する意義があるのかもしれない。
庭いじり?庭のない人もいる。旅行?毎月出かけるお金などない。孫の世話。都合のいいときなどそんなにないし、世話というものはあんがい大変である。またそれはあくまで親代わりで青春といえる行動のものではない。絵描き・物書きはどうか?それも趣味としていいだろう。ということは趣味を青春としろということか?趣味が燃え上がる物足りうるのだろうか?「青春とは人様の役に立つ状態では」と私は考えるがいかがなものであろうか?と考えれば日々のつらいこと そうストレスや肉体的悲鳴もそれ自身が青春ではないだろうか?苦しみもがいている反面それは社会として何かしらまだ役に立っている、社会の一員でいられるという実感なのである。社会の一員という枠を取られたら、はつらつなどなくなる。あるのは空虚感・虚脱感・孤独感である。そして死への旅たちか?生きる目的が死へ向かって歩くことになっていく。
だから社会人でいられることを喜びだと考えよう。「今日会社で叱られた」「失敗した」「ストレスたまった」なんて小さいことはなんとか自分で解消してみよう。それこそが青春なのである。生きているあかしなのである。

 

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