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2015年08月30日
10人が働いていた。そこにまんじゅうが10個差し入れが来た。まんじゅうは全員一人1個ずつ行き渡った。ハッピーだった。
また翌日も10人が働いていた。今度は8個のまんじゅうに差し入れに減った。これでは全員行き渡らないのでじゃんけんして2人には我慢してもらった。
翌々日はリーダー格が10人から7人を呼んで8人のグループに減らした。差し入れのまんじゅうを計算したのだ。案の定まんじゅうは8個差し入れられ、一人1個ずつ行き渡った。
翌々日はまた8人集まった。しかし差し入れまんじゅうは6個に減ってきた。そこでリーダーは困った。
①自分とサブリーダーは今回は我慢して残りの人に分け与えようか?
②また同じようにじゃんけんして負けたものは無しにしようか?
迷った結果またじゃんけんで落ち着かせた。
次の日はリーダーは6人を呼ぶつもりだったが以前のこともあり5人に減らした。
案の定まんじゅうは5個しか差し入れされなかった。何とか一人1個行き渡った。
翌日リーダーはまたまた考えて4人に減らした。そしたら今度は6個のまんじゅうが来た。2個余ることになったのでリーダーとサブリーダーで分け与えた。つまりリーダーとサブリーダーは2個食べたのである。
ここでリーダーは初めて考えた。次回も4人で集まり、もし余分にまんじゅうが来たら翌日に取っておこうと。
案の定5個差し入れが来たので1個余った。これは翌日に回した。
翌日は6人集まりまんじゅうは6個もらえた。昨日1個残っていたのでそれを先に食べてまた1個残した。
リーダーはまた考えた、「1人1個必ずまんじゅうをもらえるようにできないか」と。
そこでこう考えた。まんじゅうを持ってきてくれる人に明日はいくつもらえますかと聞くことにしたのだ。
そこで明日のまんじゅうを聞いて集める人数を考えるようになったのだ。
しばらくまんじゅうが一定の5個もらえるようになったので、今度はまんじゅうを6個もらえないか聞いてみた。
そしたらこう帰ってきた。「今の働きでは5個しか渡せない。6個ほしければもう少し働きの結果を良くしろ」と。
そこでリーダーは考えた。何とか6個もらうために明日から、はじめから6人集めてきて一番出来の悪いものは無しにしようと。
そこでメンバーは何とかもらえるように必死で頑張るように考えた。
すると2日後にまんじゅうは6個もらえるようになった。
そこでリーダーはまた1人余分に連れてきた。そこでまたメンバーは必死に頑張った。すると2日後は7個もらえるようになった。
これは今の世の中の社会、つまり資本主義の世界そのものである。
2015年08月28日
ある人Aさんが仲間2人Bさん.Cさんを連れてパチンコに行った。元手はAさんが各自に1万円出した。
3時間後終わりにして結果をまとめると、Aさん→戻り3万円 Bさん→1万円 Cさん→0円 合計元手3万円のところ4万円戻って儲けが1万円という結果になった。
次の日また同じようにパチンコした。次の日も上と同じ結果になった。
また次の日も行った。また同じ結果になった。
3日間のトータルをここで表してみると、Aさん→3万円が9万円に Bさん→3万円は3万円 Cさん→3万円は0円に。
つまりCさんはすべて元手を無くしていた。
4日目さすがにAさんはCさんは断ってDさんを呼んだ。するとDさんは1万円を2万円にしてきた。
これが3日続けたら同じ結果で合計9万円が18万の倍になって帰ってきた。
前回のマイナス分を考えるとこれで納得した。
これを会社に置き換えてみよう。
AさんがBさんとCさんに作業を割り当ててチームで取り組んだ。
来る日も来る日もCさんが失敗するのでBさんに相談した。
「いい加減Cさんは外そう」と。するとBさんは「かわいそうだからもう少し待とう」といった。
これを冷静に考えてみると、Aさんは自分以外の2人の日当を出している社長。Bさんはもらって働く社員。Cさんは入社したての新人。となるか。
やはりAさんは経営者、算数が頭に立って儲けてくれる者が仲間と考える。
Bさんはやとわれ人なので自分のお金ではないので足を引っ張られても何とも気にしない。
ただCさんが気の毒だという考え方である。
そこでAさんが「わかりました。明日からBさんにCさんの給与も渡そう。それでCさんも食べさせてあげてください」と言ったらとたんにBさんは
「あんなできないボトルネックな人の面倒は見れませんよ」と言ってきた。ここで自分が損するということが理解できて断ってきたのである。
世の中こんなものである。いつもは人が良いと言われている人も自分ごとになると途端に冷たくなるのも世の中である。
2015年08月23日
第31回でも書かれた事ですが、現在、少人数での勉強会で仏教について勉強しています。日本人である私たちは墓参りや葬式などで仏教と関わる事があると思います。私自身この勉強会を始めるまで仏教についての知識は親から聞いた事や学校やテレビからの知識しかなかったので今回の勉強会で使用している副島隆彦さん著「隠された歴史」を読んで自分が仏教について知らなかった事が多くあることを知りました。
阿弥陀如来や観音菩薩などは聞いた事があると思いますが、「如来」と「菩薩」の違いについて知っていますか。私は勉強会をするまで知りませんでしたが、「如来」とは悟りを開いた者で、「菩薩」とは悟りを開こうと修行している者を指すそうです。また、仏教と言われると仏像を拝むものだと思っていましたが、これはブッダ(お釈迦様)が亡くなった200年後にギリシャ・ローマの影響を受けて作られたそうです。他にも仏教には多くの宗派があります。これは各宗派がよりどころにしている経典の違い、他の宗教の影響などによって変化していったからだそうです。こうして見るとブッダが開いた仏教とはどんなものだったのかと思いませんか。こうした疑問をそのままにせず、知っていこうとする事が自分の成長に繋がると思うので、これからの勉強会の時間を大切にしていきたいと思います。
福田
2015年08月23日
HP リンク http://www.fuji-advance.co.jp/prof/policy.html を見ていただいて解りますように「営業部」「業務部」「生産部」の3つに分かれています。
この中で最も付加価値の高く稼ぎ頭は「生産部」です。唯一の利益を生み出す場所です。
「営業部」は仕事の確保が目的でそこには利益は生み出す要素がありません。
「業務部」は当然のこと事務処理や管理面が役割となりますから逆に言うと唯一生産性の無い場所です。
当然社員の配置割合も「営業」:「業務」:「生産」=2:2:6となっています。
入社スタートはレベルも給与も同じですが、やはり一番教育熱心にされるのは「生産部」です。ですから給与面や立ち位置も一つ抜きんでることになっていく。
「生産部」の男女の割合は男:女=7:3になっています。この中で女性が大事な役割を果たしているのは「資材発注・パーツ管理」の面です。
男性と女性の家庭での役割でもそうですが、仕事をしてお金を稼ぐことは主に男性、家事一般は女性が受け持っています。勿論共働きは当たり前なのですが、要は女性はきめが細かいということでしょう。ですから工場内の管理的なことは女性が受け持っています。
それ以外に機械で材料を加工するためのプログラム作成も女性が受け持っています。要は藤榮全体の要は女性であるということが言えるでしょう。
女性で職種と考えると「事務」と考えがちですが、女性の中でも「私は会社の一員としてぜひ活躍したい」「女性でも男性に負けないわよ」という心意気の方はぜひ「生産部」をお勧めします。
確かに初めは抵抗があるかもしれませんが、藤榮の明日を作るのはやはり「生産部」であると言い切れるからであります。
ましてや一通り女性でやれる仕事をマスターしていけば女性工場長も生まれてくる可能性はあります。それだけ会社も期待していますし、また今の日本には新しい21世紀をしょって立つ若者が必要です。そこには女性の力がどうしても必要になってくると考えるからであります。
2015年08月20日
自分の経験したことのない世界を眺めたり感じたりしてみると①「アーすごいな。しかし私には無理」と考える人と、
②「アーすごいな。私もあのメンバーの一員として活躍したいな」と大きく2つに考えがわかれる。
①の場合の方は今後も無理をしなくて人生を進めていけばよい。
しかし②を感じる人は思い切って踏み出すしかない。振り返る余裕もないし、結果を悩む必要もない。成功者がいるのだからそれと同じことをすればよい。ただそれだけのことなのである。 もちろんただそれだけということの中に「ノウハウ」があるし、一見簡単そうに説明される中に影の努力がある。
こういう世界の例に芸術の世界、職人の世界が代表にある。この世界は「一子相伝」といっても過言ではない。 見た目に感動し、ああなりたいと思わされるものは「芸術」ととらえた方が良いだろう。味わう、聞きほれる、見た目に目を奪われる、どうしてもほしくなる、こう言った物であろう。
会社運営もこんなものであろう。そう「芸術」なのである。だから見た目に素晴らしいと思わせられ、その一員になりたいと思うのである。
芸術の世界はまさにその磨き上げた匠の技を「まねる」ことしかない。この「まねる」ことがすなわち「学ぶ」ことなのである。そして先生はある優れた人物のみにおのれの秘伝を極秘で教えるのである。 この秘伝は一種の毒にもなる。それなりで無い者が身に着ければそれは逆に悪いものになってしまう。だから先生は生徒を選ぶ。
ということは生徒も然り、本当の素晴らしき芸術を身につけた先生を選べ。そしていったん選んだらどこまででも食らいつけ。泣き言言うな。振り返るな。今を考えるな、10年先を見つめろ。そして去り際を見つけろ。
とにかく言いたい。「おのれを信じろ」すれば実力はおのずと結果としてついてくる。人生は自分との我慢比べである。 そしてあなた以上に数十倍も我慢してくれているのは、いつの日か自分以上に乗り越えてくれる立派な姿をあなたに思い浮かべて、必死に口に泡を浮かべながら「怒鳴り、叱咤し、激励し、時に無視する」先生の方である。
それで人は一人前になり、去り際というものを考えることになる。
去り際というものは自分が師匠に立派に作りだされたように、芸術的弟子をこの世に作り出すことである。
この一連の流れで人生は終わり後世に名が残るのである。名は墓に刻む物ではない。
2015年08月19日
「論語の中に「私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった」というのがある。
この学問の基礎は何か?現代では社会人または職場の基礎と言い換えてもいいのだが……。
就職したら会社は新人君に早く仕事を覚えてもらいたい。だからまず作業から覚えることになっていく。確かに作業は大切である。しかしこれは一見近道を歩いているように見えるのだが実は後々遠回りになっている。
論語で説明している30歳での基礎というものはズバリ人生観であろう。
ギリシャ・ローマ時代に「リベラル・アーツ」という概念があった。これをインターネットで調べると
ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで、人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本と見なされた自由七科のことで、具体的には文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学(円運動についての学問、現在の地理学にも近い)・音楽(ここでいう音楽は現代の定義の音楽とは異なる)の4科のこととでてくる。
さらに第1科目として数論(1次元)と計算術の研究である算術、第2科目として平面(2次元)に関する研究である幾何学とでてくる。そして哲学は、この自由七科の上位に位置し、自由七科を統治すると考えられた。
つまり本題に戻るとすなわち人生観とは、ひとりひとりが、自身自身の人生や人間全般の人生について抱く諸観念のこととでてくるので、まずこの哲学を学ぶべきなのである。
この哲学を5年ほどかけて地道に学んでいけばウサギと亀のイソップ物語にあるように、いつかウサギつまり近道したものを追い越すことが必ずできる。またこの者は「砂上の楼閣」ではないので、スランプに落ちても自分自身でそれから抜け出すことができる。しかし近道をしたものは地図を失ったとたんに人生という道に迷い、どう進んでいいものかわからなくなってしまう。
だからくどい様だがまず人生観、つまり哲学から入り次に算数つまり儲けること、算式にある、「売り上げ、粗利、経常、生産性」などに今度は知識を全力で見につけていかねばならない。
この数字を身に着ける時に注意したいのは、数字を優先すると人間関係がぎくしゃくし、かえって良いと思われることが崩壊するということである。だからどうしても哲学=倫理感=道徳が必要になってくる。
「泥棒しても金儲けしろ」これでは数字は良くなるがあきまへん。「仲間をロボットと同じように働かせてピンハネしろ」これも同じ。世の中まず数字ではないのです。
次に大切なのは数字は帳面と電卓上のことではないということ。計算の上ではいくらでも理想を描くことができる。しかし数字こそ実際に積み上げたおのれのまたはその会社の能力の表れであるので、数字を考えるのならば実態をよく熟知しなければなりません。現実性のない数字ほど馬鹿げていることは無い。だから凡人に数字をいじらせてはいけない。そこで元に戻るが基礎的概念がしっかりしていてさらに基礎学力の見についている者のみが、「作戦」というものを考えてもよいのである。
作戦の考えられない司令官はリーダーとは言わない。ただのお山の大将である。何の裏付けもない者はいつか倒される。
こんな考えがある。ある者が若者に「どうしてお前は〇〇なんだ」「俺が言ったとおりにしろ」と言ってくる。それは社長が言っているわけではなので、その人が考えたことや経験からものを言っていると思うのだが、どうも言われた方は腑に落ちない。そこでその先輩に聞いてみた「先輩が言うことを行えば今度のボーナスが上がりますか」と。
何が言いたいかといえば命令・指示の見返りには必ず評価と手当が付いて回るということだ。一生懸命言われたことをやってそれが先輩の満足だけだったということならばやらない方がいい。
結論 つまりこの先輩には命令する権限がなかったということである。無い者はリードという振る舞いをしてはいけない。して良いものは哲学が理解し尚且つ次のステップに実績から導き出した数字を理解したものだけである。
地図を持たない先導車の後を付いて行くといつか迷路にはまるということである。
2015年08月16日
現在、藤榮では少人数のグループで勉強会をしております。内容については「そもそも仏教とは何なのか」についてです。日本人のほとんどは宗教についてはあまり関心がないのではないかと思います。正月に神社に参拝したり、クリスマスにはお祝いしたり、と様々な宗教の行事を行ったりします。宗教の中でもイスラム教やヒンドゥー教などと比べると仏教については多くの人がなじみ深いと思いますが、仏教についてどれだけのことを知っているでしょうか?私自身まだまだ知らないことばかりですが、仏教は仏陀(ブッダ)=お釈迦様の教えであるという認識しかありませんでしたが、仏教には数多くの宗派がありその中には仏陀とはあまり関係のないようなものまであるそうです。仏に対してお祈りをするというと、普通は仏=仏陀(ブッダ)にお祈りをすることだと思います。しかし、お祈りをする対象が仏陀ではなく、べつのものにお祈りをしているものもあります。仏像というと仏陀の像を思い浮かべますが、全部が全部、仏陀の像でしょうか?
関心がなければ、「そんなことはどうでもいいじゃないか」で済んでしまうことかもしれませんが、そこでは終わらせずに勉強をすすめてみようと取り組んでいます。知らなかったことを知ることができる良い機会なので、これからも勉強をしていきたいと思います。
寺澤
2015年08月11日
「5Sとは1.整理→不要なものを捨てること 2.整頓→使いやすく並べて表示をすること 3.清掃→きれいに掃除をしながら、あわせて点検すること 4.清潔→きれいな状態を維持すること 5.しつけ→きれいに使うように習慣づけること という意味である。
ここで最後に躾が入ってくるのだがこの躾をもう少し細かく見てみよう。インターネットで調べると、
しつけとは、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように、訓練すること。
しつけとは、教育することと言い換えても良いが、教育一般よりも生活全般に根ざした、更に根源的な事柄にまつわる部分を教えていく行為を指す。とある。
たとえば「就職は人生の難関の何番目になるか」で紹介した、お受験ということがある。愛知県で男子というと最高の中学はやはり「東海中学」であろう。ここに入学させるため(子供本人はそんなことわからない)親が必死に勉強させる。
勉強とは机に向かってじっとしていられる人間が勝つと決まっている。落ち着きがない子供、またはそういった環境にいる子供または勉強しなさいといわれない家庭の子供は別段無理して勉強しない。
しかし勉強しなさいと親が厳しく躾し尚且つ一流の学習塾に入れるとだれでも入学できるかというとやはり落ちるべき人は必ずいるのである。しかし親は何とか受かってもらいたいだから躾ける。
これで躾けられた子供は、他のそうでない子供たちよりも結構きめが細かい。きめが細かい人間は神経質ともいえるので仕事もやりこなす。なぜなら自分にプライドを持っているからである。できない自分が許せないのである。
また彼らは自分に厳しいようにまた他人にも厳しい。だから組織にそれなりの立場に上がっていける。このようにすでに人生の競争は小学生から始まっているのだ。
これ以外に社会で競争に勝つ方法は自宅が仕事場であって親が子供に毎日毎日仕事のお手伝いをさせている家庭である。これは門前の小僧の世界であり親の背中を見て子は育つそのものである。
良く会社経営は3代目でダメになる言われるがまさにこれである。2代目はお父さんの仕事ぶりを見て育っている。ところが3代目は生活の場と職場が既に別になってるのでなかなかお父さんの仕事ぶりがわからない。
また3代目の中にはお父さんと違ったことをやりたいという者もいて突拍子もないことをやりだすものもいる。これを2代目が抑えることができれば良いのだが、親ばかというか案外自由にやらせてしまう。
本当に3代目に経営の素質があればこの自由奔放こそ最高の訓練となるのだが、それは子供のころに躾されていたという条件が必要になってくる。子供の時から甘やかされて大人になっても甘ければ結果は知れている。
では子供のころは甘やかし大人になったらしっかり躾すればよいかとなるがこれもダメ。甘やかされた坊ちゃんは打たれ弱い。また挑戦意欲もない。
では子供のころ厳しくされさらに大人になっても厳しくされたままの大人はどうか。これもあきまへん。自分の意思というものがない。自立できません。
結論やはり小学生まではしっかり躾けられた子供でその後年を追うごとに自立させられ、社会に出たらご自由にどうぞといって育てられた子供ほど競争の社会で強いものはない。
強いとは別の言葉で言いかえると要領がいいともいえる。要領をわかりやすく言うと、大学時代の試験をすべてカンニングできりぬけ、またレポート提出には他人の物を借りて写し、授業は友達に代弁してもらってバイトするか遊びに励んみ、卒論もめったに出なくて最後の発表のみ参加する、その癖4年でしっかり卒業し成績も優秀だった者といえるでしょう。
これは頭が良いという世界ではなく、まさに要領つまり友人関係・段取り・時間管理・目的意識などなどの社会人として必要なことをすべて持ち合わせているといえる。
この者が社会に出て「仕事を躾けられ」文句を言いながらそれなりに結果を出していくともう誰もついていけない。もともとの素質が違うからである。どれぐらい追いつけないか?
仮にその要領の良いものが上から1番だったとしよう、つぎの2.3.4番の3人が協力して対抗しても多分1番つまりその要領の良い人間には一生勝てないだろう。人生とはこんなものである。
「学生時代しっかり勉強してきてあまり遊べなかったから社会人になったらのびのびと生活します」という考えの者もいるがこれもあかん。そもそもこれからさらに競争が厳しくなるといっているのにそんな甘い考えではどうするの。
くどくど申し上げるがいい給料がほしくまたそれなりの地位立場がほしければ、よく考えることである。ほんの1時間ほど考えて結論出しこれではあきまへんで。
来る日も来る日もまた風呂入っていても眠っていても考え続けないと。だいたいこんな状態では不安でぐっすり眠ることもできないと思うのだが。
睡眠薬まがいの物を飲んで週に1回はぐっすり寝る。それ以外はとにかく励む。血のにじむとは言わないが、それでも血の小便が2.3回ほど出ないと。実は要領はいいのだが案外神経質で陰ではしっかり努力しているのである。
他人に負けるのが悔しいというその一点で生きているのである。だから誰が見ても優秀なのである。
お金持ちになれますか?という前にまずやることやってみることである。
2015年08月09日
予習復習と聞くと、学生の頃を思い出す。
予習とは前もって学習することであり、復習とは習ったことえお繰り返し学習することである。
やる人とやらない人では、成績の差は明白である。やれば授業もスムーズに進むし、テスト前に焦らずに済むし、いい点が取れる。では、なぜやらないのか。それは意識が低いからです。やる人は中1か2年には、どこの高校に行くか決めている。さらには「○○大学に行くには××高校に行かないと」という人もいるでしょう。やらない人は中3になってから「自分の学力なら□□高校かな」という具合に決める。しかも後者に限って提出物の出が悪い。つまりは先生の言うこと聞かないということである。
社会に出ても予習復習は大事である。
その前に、学生は学校にお金を払って教えてもらう、社会人は会社から給料を頂いて、さらに教えてもらう。このことを頭に置いておかなければなりません。
入社して間もない頃は、初めてのことばかりである。3カ月もすれば慣れてくる。もうこの頃には新入社員とは呼ばれない。最初は手とり足とり教えてもらえたが、もう自分で覚えていくしかない。どうするか。先輩のやっている作業を見て盗むのである。しかし、自分の作業も並行して進めなければならない。自分の作業ですら精一杯なのに、人の作業を見ている時間や余裕がない。時間がないなら増やせばいい。いつもより早く出社する、今日あった事を反省して明日に繋げる。仕事外の時間に勉強する。時間は誰もが平等である。1日24時間これは変わらない。この時間をいかに使うか。いかに努力するか。よく「私は努力しています」というフレーズがありますが、もし他の人も同じような努力をしていたら意味がありません。いつまで経っても平行線です。抜きん出るためには人の2倍3倍それ以上しなければなりません。言われたことだけでは、成長に限界がある。しかし言われたこともできない人が多いのも事実である。先に提出物の出が悪い人は言うことを聞かないと言った。学生であれば先生に、会社であれば先輩に言われたことである。これは今就活している人にも言えることである。本気で入りたいならば、その会社の隅々まで調べるであろう。調べてこなかったら、うちに入る気はないのだろうと考える。もし入れたとしても会社で言われたこともこの人はできないだろう。自分の入りたい会社を全力で予習し、入ったら毎日復習の繰り返し。これを怠れば違う人に仕事を取られ、自分の行き場がなくなる。常に競争である。
山本
2015年08月09日
こんな授業があった。
先生が生徒にやかんについての実験を説明していた。
先生「ここに水の入ったやかんがあります。これに火をつけて沸騰したら火を消します。沸騰したやかんは絶対に触ってはいけません。大変熱く触るとやけどをするからです」
生徒「はい。わかりました」と返答する。
その中の生徒A「本当にやけどするのかなあ。触ってみよ」「あちーやけどしたあー」→先生のことが信用できなくて実験してみるタイプ
生徒B「やっぱり触るとやけどするのだから触ってはだめだ」と学習するタイプ。
生徒C この生徒はこの先生の授業を受けていないのだが、たまたま通りががっておもしろそうだったので実験の一部始終を見ていて、熱いやかにに触ると火傷することを覚えた」
このタイプはなかなか社会にいない。どうしても自分の作業にいっぱいいっぱいで他人のふりを見る余裕がないからである。
生徒D「どうしても触ってみたい。しかし自分で触るのは嫌だからだれか違うやつに触らせて自分はその様子をうかがおう」
真に要領のいいタイプである。これは大成する。生徒Cも少ないがこの生徒Dはなお少ない。CとDの性質を兼ね備えている人は相当大成するであろう。
さて仕事に当てはめてみよう。
先輩が新人Aに作業を説明し最後に「ここに気をつけないと失敗します」と付け加えた。
先輩は新人Aに作業をやらせてみて30分ほどつきっきりで指導し、作業ぶりを確認していた。どうやらできそうだったのでその場を離れた。
始めてから40分後新人は先生が注意したことを守らなくて案の定失敗した。やかんの話でいうと熱いやかんに実際に触ってみたのである。
社会で仕事につかまると大体の新人は生徒Aである。頭では理屈がわかるのか説明が終わると「はい」と言う。しかし失敗するのだ。
それで先輩が飛んできて叱られる。「だからこうすると失敗するといったでしょう」と。
これが普通の出来事である。その叱られている様子を見てBさんは学習するのである。これを「人の振り見て我が振り直せ」ともいう。